京築の言論守った2人 京都印刷創業、蓑干万太郎氏 京都新聞発行人、八波太作氏 [福岡県]

昭和初期の京都新聞の建物。張り出された新聞を読む人たちが見える(八波憲一さん提供)
昭和初期の京都新聞の建物。張り出された新聞を読む人たちが見える(八波憲一さん提供)
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蓑干万太郎さんの遺影を持つ京都印刷の蓑干博文会長(右)と博文会長の母で、夫丸己さんの写真を持つヒトエさん
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育徳館中・高の小正路淑泰校長
育徳館中・高の小正路淑泰校長
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 戦前戦後に行橋市とその周辺で発行されていた「京都新聞」。その印刷部が行橋市の「京都印刷」(蓑干功社長)の前身で、戦前に設立されたことが、このほど見つかった紙面で判明した。だが、新聞の発行人は「八波太作」という人物だった。八波氏とはどういう人物で、京都印刷の創業者で功社長の曽祖父の蓑干万太郎氏と、どのような関係だったか。数少ない証言を追った。 (佐伯浩之)

■財界人と交流

 八波氏は、津屋崎町(現福津市)出身。若いころ、行橋市に来て、馬車による運送業を営んでいた。八波氏の孫の梶原和美さん(74)=千葉県佐倉市=によると「いつ頃かは分からないが、自宅で新聞社を営み、仕事の傍ら取材に回っていたようだ」と語る。

 一方で、八波氏は地元の政財界の人間と親交を深めた。行橋市出身で中山製鋼所(大阪市)創業者・中山悦治氏が新聞社によく出入りしていた。八波氏に傾倒した中山氏は「行橋のために」と中山グラウンド(同市大橋2丁目)を造った。

 八波氏は自らも町長選に立候補。落選したが「政治には興味があり、選挙の立て看板も見た記憶がある」(梶原さん)など地元では知名士だった。戦後、病に倒れ自宅で療養する生活が続き、1965年11月、85歳でこの世を去った。

■政治的活動も

 一方、蓑干氏はプロレタリア社会主義の指導者で旧豊津中(現育徳館高)出身の堺利彦が31年に「農民労働学校」を開校したとき、自宅を提供した。

 堺の研究の第一人者で育徳館中・高校(みやこ町)の小正路淑泰(こしょうじとしやす)校長(57)によると、蓑干氏は、全国大衆党京築支部長を務めるなど、政治活動にかかわっていたという。小正路校長は「八波氏と蓑干氏は、政治活動で知り合い、京都新聞を一緒に作っていたのではないか」と推測する。

■記事部門も?

 蓑干氏の息子で京都印刷の2代目社長、丸己氏(故人)の妻ヒトエさん(97)がこんな話をしてくれた。「京都新聞は戦後に再発刊した」というものだ。47年ごろ、行橋市中心部にあった劇場「稲荷座」で発刊式をしたというのだ。「私が『来賓』や『主賓席』など来場者の席の割り振りを示す紙を書いた」と語ってくれた。丸己氏も会社では新聞製作などを担ったという。

 京都新聞は戦時中に休刊した可能性が高い。戦後、復刊を目指した八波氏だったが病に倒れた。蓑干氏は八波氏から記事部門も引き継いだのではないか。その後、蓑干氏は53歳で亡くなった52年まで新聞製作の陣頭指揮を執った。京都新聞は50年代後半まで続いた。

 2人の「行橋の知名士」が戦前戦後に、京都地方の言論紙「京都新聞」を守った。その紙面は、国立国会図書館のプランゲ文庫などにも眠っているという。

=2019/03/23付 西日本新聞朝刊=

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