菊竹六皷の信念に触れる 没後80年、記事や愛用品に息遣い うきは市の記念館 [福岡県]

菊竹六皷が書いた記事や胸像、写真などが展示された記念館
菊竹六皷が書いた記事や胸像、写真などが展示された記念館
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うきは市吉井町の中心部にある記念館。手前は江戸時代に開かれた水路「南新川」
うきは市吉井町の中心部にある記念館。手前は江戸時代に開かれた水路「南新川」
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 福岡日日新聞(西日本新聞の前身)の編集局長・主筆などを務め、20世紀の「世界の報道人百人」の一人に選ばれた菊竹六皷(ろっこ)(1880~1937)が亡くなって今年で80年。出身地のうきは市吉井町には遺品などを展示した「菊竹六皷記念館」がある。命日(7月21日)を前に足を運び、「信念の言論人」と呼ばれた六皷の事績や人となりに触れた。

 白壁土蔵の町並みが続く通称「白壁通り」の北端に記念館は立つ。江戸時代に開かれた用水路「南新川」に面した平屋の建物は、庭の木々の葉に隠れて見えづらい。案内してくれた市教育委員会文化財保護係の女性職員が「ちょっと、目立ちませんよね」と、六皷の「後輩」をおもんぱかってか、申し訳なさそうに言う。

 玄関ロビーに入ると、正面の壁に六皷のブロンズ製レリーフが埋め込まれていた。福岡の彫刻家、古森秀渓の作で、記念館が落成した1963年に除幕された。目を大きく見開き、奥歯をかみしめているせいか、頬骨が指でつかめるほどに浮き上がった横顔。「硬骨」の人物像がストレートに伝わってくる。

 六皷は生葉郡福益村(現うきは市吉井町福益)の生まれで、本名は淳(すなお)。久留米市の中学明善(明善高の前身)から東京専門学校(現早稲田大)に進学し、03年に福岡日日新聞に入社した。論説記者として活躍し、32年に犬養毅首相が海軍青年将校らに殺害された五・一五事件に際しては「敢えて国民の覚悟を促す」などの論陣を張り、軍部批判、憲政擁護の筆を振るった。

 記念館の建設計画は六皷の友人らの提唱で始まり、福岡銀行会長の永江真郷(まさと)(福岡日日新聞社長、西日本新聞初代社長)を会長に「菊竹六皷顕彰会」を結成。同会が中心になって募金活動を展開し、工費600万円をかけ完成した。鉄筋コンクリート造り182平方メートルで、遺品展示ばかりでなく、地域住民が使えるようにホールや和室を設けた。

 遺品室には六皷の写真パネルや胸像、執筆した記事の拡大コピー、職場で使った机と革張り椅子、愛用した英国製帽子やかばん、自身が揮毫(きごう)した「常戒放心」の扁額(へんがく)、愛読していた「孟子」「中庸」、東京専門学校時代の教科書などを展示。同時代の言論人、徳富蘇峰から贈られた「海内文章落布衣」の扁額もある。そうした品々を見ていると、時代に向き合った六皷の息遣いが感じられるようだ。

 地元でも没後80年を機に、古里の生んだ言論人への思いが再び強くなっている。

 数年前、六皷の論説などをテキストに続けられた勉強会「菊竹六皷を読む」に参加した、うきは市郷土史会会員の内山義則さん(69)=同市吉井町鷹取=は「軍部の横暴やテロが頻発する時代の中で、議会政治擁護の筋を通した六皷さんの生き方を多くの人に学んでもらいたい」と語る。

 高木典雄・うきは市長も「地元でも、六皷さんを知らない人が多くなった。憲法のあり方が論議されている今こそ、ペンを休めることなく訴え続けた郷土の先輩に思いをはせたい」と言葉に力を込めた。

   ◆    ◆

 記念館には、市教委から管理を委託されている近くの「佐藤ペットショップ」に申し込めば、無料で入館できる。開館は午前9時~午後4時半で、月曜休館。展示内容についての問い合わせは文化財保護係=0943(75)3343。

=2017/06/16付 西日本新聞朝刊=

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