久留米藩「応変隊」足跡追う 奇兵隊がモデル武士農民混成部隊 箱館戦争で華々しい戦果 地元では乱暴狼藉に悪評 [福岡県]

高良大社の参道にある放生池。殺生が禁じられた池の魚を応変隊が捕って食べたという逸話がある
高良大社の参道にある放生池。殺生が禁じられた池の魚を応変隊が捕って食べたという逸話がある
写真を見る
田中久重が所長を務めた製鉄所跡に立つ石碑
田中久重が所長を務めた製鉄所跡に立つ石碑
写真を見る
応変隊を創設した水野正名(久留米市史より)
応変隊を創設した水野正名(久留米市史より)
写真を見る

 今年は明治維新150年。昨年12月の紙面で幕末に全国有数だった久留米藩の海軍に着目したが、今回は長州藩の奇兵隊をモデルに久留米藩で結成された「応変隊」を取り上げる。武士や農民の混成部隊で、戊辰戦争では新政府軍として戦果を挙げたが、地元で乱暴狼藉(ろうぜき)を働き、評判は芳しくなかったという。久留米市文化財保護課の学芸員、小澤太郎さん(48)とゆかりの場所を巡った。

 久留米市史によると、応変隊は戊辰戦争まっただ中の1868年6月に発足した。農家や商家の子弟、足軽の次男、三男の500人が隊員に選ばれた。久留米出身の洋画家、青木繁の父親も隊員だった。

 応変隊は英国式の訓練を受け、久留米藩の尊皇攘夷(じょうい)派のクーデターで藩政を握った水野正名(まさな)の親衛隊的な存在だったとされる。ちなみに、クーデターで粛清されたのは海軍創設に尽力した今井栄ら開明派だった。

 水野は藩の尊攘派の中心人物で、長州派の公卿三条実美(さねとみ)に近かったが、投獄生活が長く、小澤さんは「藩内に自らの基盤がなかったため、農民などを集めて、しがらみのない組織をつくろうとした」とみる。久留米藩は長州征伐に参加しており、奇兵隊の強さを身をもって知っていたと考えられるという。

 戊辰戦争で久留米藩の藩兵は新政府軍として、旧幕府側の彰義隊の鎮圧に参戦した。応変隊はこの戦いに加わっていないが、発足間もない68年9月に若津港(大川市)を出て、翌年にかけて榎本武揚が率いる旧幕府軍との箱館戦争で激戦を繰り広げ、松前城や五稜郭の攻略に貢献した。

 華々しい戦果の一方で、地元久留米では応変隊への悪評が目立つ。高良大社の逸話もその一つ。

 応変隊は主に久留米城や高良山にあった藩主の御殿を警備したが、殺生が禁じられた放生池の魚を捕って食べ、神仏習合だった境内の仏像の首を切り落とした。「隊員の中には不逞(ふてい)の徒も交じっていて、勢いに任せて乱暴狼藉を働いたので、後には蛇蝎(だかつ)のように嫌われ、かつ恐れられた」。久留米人物誌はそう伝える。

 混成部隊で、規律や統制が取れていなかったのか。「血気盛んな若者たちが、戦争がすぐに終わってしまい、やることがなくなったのでしょう」(小澤さん)

   □    □

 市内の南薫地区には、昭和40~50年代まで応変隊の屯所跡の建物が残っていたそうだ。小澤さんと周辺を歩くと、鍵形の狭い路地が往時をしのばせる。

 屯所跡の近くには、東芝創業者の一人として知られる田中久重(1799~1881)が、応変隊と同時期に所長を務めた製鉄所跡の石碑が立つ。久重は開明派の今井に請われて佐賀藩から招かれ、当時は洋式銃をまねた鉄砲の製造に携わっていた。政権は代わっても、今井の殖産興業政策は踏襲された。

 市史によると、応変隊は1870年に解体。藩の常備隊に合併されるが、過激な尊攘思想が藩の危機を招く。長州藩の兵制改革に反発して脱藩した奇兵隊幹部を応変隊がかくまい、新政府打倒を画策したため、新政府が官軍を派遣する久留米藩難事件に発展した。

 藩主(知事)は謹慎、事件関係者のほかに水野も捕らわれ、青森で獄死。水野は支持基盤だった尊攘派に権力の座を追われた形だ。小澤さんは「新政府と尊攘派との間で板挟みになり、尊攘派を抑えることができなかったのではないか」と推測する。

 一連の騒動は、急速な中央集権化や開明的な改革を進める新政府への反発を強め、後に九州で頻発する士族の反乱や西南戦争へとつながっていく。

=2018/03/02付 西日本新聞朝刊=

西日本新聞のイチオシ [PR]

西日本新聞のイチオシ [PR]