平和台を創った男 岡部平太伝(1)世界制覇 敗戦日本を奮い立たす [福岡県]

1951年のボストン・マラソンの日本選手団。優勝した田中茂樹(左)と監督の岡部平太(左から3人目)
1951年のボストン・マラソンの日本選手団。優勝した田中茂樹(左)と監督の岡部平太(左から3人目)
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岡部平太の胸像前で笑顔を見せる田中茂樹(左)と重松森雄=福岡市の平和台陸上競技場
岡部平太の胸像前で笑顔を見せる田中茂樹(左)と重松森雄=福岡市の平和台陸上競技場
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 戦後間もない1951(昭和26)年4月。米国で開催された第55回ボストン・マラソンで、日本人が初優勝を果たした。焦土と化した敗戦国の日本が、世界最高峰の大会で栄冠を手にしたニュースは世界を駆け巡り、日本中を奮い立たせた。

 この時、日本選手団の監督を務めたのが、岡部平太だった。優勝した田中茂樹(87)=栃木県宇都宮市=は「2020東京五輪」を控えた今、岡部を思う。

 「岡部先生がいなかったら、自分は優勝できなかったし、日本のスポーツの発展もなかっただろう」

 岡部は1891(明治24)年、糸島半島の芥屋村(現糸島市)で生まれた。日本一の柔道家を目指して上京。東京高等師範(現筑波大)を経て米国留学し、科学トレーニングを学んだ。あらゆるスポーツを体得し、「日本人の体格で勝てる競技はマラソンしかない」と看破。「日本人の誇りを取り戻す」舞台としてボストンを選んだ。

 岡部には「スポーツは勝たなければいけない」という信念があった。勝利を目指しての修練こそが、スポーツによる人間教育の本質。根性論ではなく、ルールを守り、科学に裏付けられた理論による練習が不可欠だと考えていた。

 田中は当時の練習を鮮明に覚えている。

 「マラソンはスピードだと何度も言われた」

 今では当然だが、当時は「誰も考えていなかった」と田中は言う。

 練習では400メートル、1500メートルなど距離を決め、緩急をつけて走らされた。日本にはまだ浸透していなかったインターバル走だった。

 岡部の薫陶を受けた選手は数多い。1965(昭和40)年のボストン・マラソンを制し、同年に世界記録を出した重松森雄(78)=福岡市早良区=もその一人だ。

 「勝ちなさい。世界を見据えなさい。競技人口の底辺を拡大しなさい」

 重松は岡部の言葉を胸に岩田屋、サニックスなどで指導者の道を歩んでいく。

 ボストンでの田中の快挙は米国でも新聞の一面を飾ったが、その横にあったトップ記事は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの退任だった。

 日本に進駐した権力者の「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という演説と並ぶ「JAPAN」勝利の文字。田中は「どうだ、みたか」と思わず叫んだという。

 だが、マラソン世界制覇は、一朝一夕に成ったわけではなかった。

    ×    ×    

 スポーツの聖地・平和台(福岡市)を創設した岡部平太(1891~1966)。糸島で生まれ、福岡、東京、米国、旧満州、そして世界中であらゆるスポーツを体得・研究し、生涯をかけて「コーチ」に徹した。「2020東京五輪」を前に、日本近代スポーツの父ともいえる男の波瀾(はらん)万丈な生きざまを追う。

 =文中、写真とも敬称略

※小説「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)」(著者・橘京平、幻冬舎刊、1,200円)が好評発売中

=2019/01/07付 西日本新聞朝刊=

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