平和台を創った男 岡部平太伝(3)直言居士 マッカーサーを動かす [福岡県]

戦後、日本で初めて公式に掲揚された日章旗=糸島市の伊都文化会館
戦後、日本で初めて公式に掲揚された日章旗=糸島市の伊都文化会館
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 戦後、日本で初めて公式に掲揚された日章旗が、糸島市の伊都文化会館に展示されている。1948(昭和23)年、福岡市で開催された第3回国体の主会場、平和台陸上競技場に掲げられたものだ。手作りで3枚の布をつなぎ合わせてあり、日の丸もゆがんでいる。

 当時は連合国軍総司令部(GHQ)の指令で、国旗掲揚は認められていなかった。しかし、国体準備委員長だった岡部平太は、式典委員長の楢崎正雄と共に連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーに直訴。大会直前にGHQから「君が代の演奏裡に国旗の掲揚差支えなし」との電報が届き、国旗掲揚を認めさせた。

 マッカーサーは28(昭和3)年のアムステルダム五輪で米国の選手団長をした経験があり、岡部らのスポーツマンシップが通じたといわれている。

 岡部はこうした直言居士(ちょくげんこじ)ぶりを何度も発揮している。福岡市の福岡師範学校に在籍した頃は学校の教育方針に反対し、いったんは退学処分を受けた。米国留学の経験から戦争には反対で、45(昭和20)年1月、首相だった小磯国昭に会いに行き、「戦争終結」を訴えたこともある。

 岡部の教え子の一人、福岡教育大名誉教授の厨(くりや)義弘(85)はこう話す。

 「岡部先生は一度これと思ったら、誰であろうと立ち向かっていった。国体も先生の熱い思いと執念で実現した」

 岡部は、GHQが接収していた土地(現舞鶴公園)を国体会場にするため、GHQ幹部と何度も折衝。この言葉で納得させた。

 「もう戦争は終わった。ここをスポーツのピースヒルにしたい」

 岡部の長男・平一は沖縄特攻で戦死した。平一の話になると、岡部は人目もはばからず泣いたという。悔やんでも悔やみきれず、「不戦」を訴えた気持ちが届いたのだろう。

 岡部はGHQからブルドーザー2台を借り、連日2500人を動員して競技場を建設。ラグビー場は、福岡市のラガーマン200人がユニホーム姿で整地した。岡部は、疲れ切った人たちをこう鼓舞したという。

 「奈良・平安の仏教徒は、その信仰の力で偉大な仏像と大伽藍(だいがらん)を建立した。われわれスポーツ人は、スポーツの力でスポーツの殿堂を造るのだ」

 その後長く人々に愛されることになる国体会場。岡部は万感の思いを込め、「平和台」と命名した。 =文中敬称略

※小説「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)」(著者・橘京平、幻冬舎刊、1,200円)が好評発売中

=2019/01/10付 西日本新聞朝刊=

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