平和台を創った男 岡部平太伝(4)悪僧坊主 “天狗”と呼ばれた青春 [福岡県]

岡部平太の名札を手にする隻流館館長の舌間萬三
岡部平太の名札を手にする隻流館館長の舌間萬三
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 岡部平太は1891(明治24)年、糸島半島の芥屋村(現糸島市)で9人きょうだいの長男として生まれた。実家は養蚕業と櫨(はぜ)ろう業を営む農家。暮らしは楽ではなかったが、両親は岡部が17歳の時、全寮制の福岡市の福岡師範学校に進学させる。教師を目指す師範学校は県内に1校しかなく、狭き門だった。

 しかし、成績優秀だった半面、岡部は幼い頃から「悪僧(わるそう)坊主」として名が通っていた。「遊びといたずらには、少しの不自由もなかった」と岡部自身も述懐している。田畑を荒らし回ったり、ため池でカッパのまねをして驚かせたりして、村人の手を焼かせたという。

 糸島の海山で鍛え抜かれた運動能力は極めて高かった。福岡師範では柔道、剣道はもちろんテニス、陸上、野球、ボートでも活躍。柔道では1911(明治44)年の全国大会「京都武徳会」で準優勝を果たし、初段の免状を受け取った。

 その強さを物語るのが、福岡市博多区の柔道場「隻流館(せきりゅうかん)」の壁面に残る名札だ。隻流館は明治に入り、「千本取り」という修行を始めた。自由に技を掛け合う「乱取り」を、千本続けて行う苦行だ。普通は8時間はかかるが、岡部は5時間で成し遂げた。21歳の時だった。

 館長の舌間(したま)萬三(71)によると「とにかく段違いに強かった」という伝説が残っている。

 岡部は13(大正2)年、講道館柔道の創設者、嘉納治五郎が校長を務める東京高等師範学校(現筑波大)に入学。同時に入門した講道館では紅白試合で7人抜きを果たし、学生ではただ一人の4段に昇進した。

 嘉納が複数のスポーツを推奨していたこともあり、岡部はテニス部や相撲部にも駆り出された。テニス部員で岡部の親友だった元大阪ガス副社長の四角(しかく)誠一は、岡部をこう評している。

 「彼は何をやらせても万能の一流選手だった」

 そんな岡部らしい逸話がある。岡部が相撲部屋に出稽古に出掛けた時のこと。164センチと小柄な岡部が、2人の巨漢力士を次々に投げ飛ばしてしまったのだ。

 翌日の新聞は大々的に報じた。

「天狗(てんぐ)現わる」

 その強さによって華々しい青春時代を送った岡部。しかし、ある出来事によって運命は変転していく。

 =文中、写真とも敬称略

※小説「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)」(著者・橘京平、幻冬舎刊、1,200円)が好評発売中

=2019/01/11付 西日本新聞朝刊=

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