平和台を創った男 岡部平太伝(5)反骨精神 信念貫き師の元を去る [福岡県]

東京高等師範学校時代、柔道着姿の岡部平太(2列目中央)
東京高等師範学校時代、柔道着姿の岡部平太(2列目中央)
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嘉納治五郎(取材協力 公益財団法人講道館)
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 「反骨精神があってなかなか人と合わん。やり出せば、なかなか人の言うことは聞かん。自分の考えでどんどん進む」

 岡部平太の性格について、金栗四三はこう語っている。2人は晩年、協力してマラソン選手を育成した盟友。同い年でもあり、金栗の言葉からは遠慮会釈のない友情が感じられる。

 こうした岡部の性格が裏目に出たのが、講道館の創設者、嘉納治五郎との関係だ。嘉納を師と仰ぐ岡部は嘉納邸に住み込み、講道館の後継者として期待されていたが、ある事件をきっかけに事態は急変する。

 1920(大正9)年秋のこと。米国のプロレスラー、サンテルが来日し、興行師のプロモートで講道館に試合を申し込んできた。「柔道対プロレス」の異種対抗試合だった。

 嘉納はこれを了承したが、岡部は真っ向から反対した。嘉納邸の書斎で、岡部はこう説得する。

 「柔道とプロレスでは、ルールが違います。戦うとなれば、どちらも自分たちに有利なルールにしたい。そうなれば、最終的には金銭で決めるしかなくなります」

 「もし対戦すれば講道館はプロの団体になり、先生が築いてきたアマチュア精神は失われてしまいます。喜ぶのは興行師だけです」

 嘉納は東洋人として初めて国際オリンピック委員会(IOC)の委員になった人物であり、アマチュア精神を重んじていた。岡部は徹夜で直言したが、嘉納は最後まで「柔道の国際化のために戦う」と譲らなかった。

 岡部の反対論には、根拠があった。17(大正6)年から2年半の米国留学を経験した岡部は、米国で実際にプロレスラーと対戦。金銭のやりとりを含めて、興行の「インチキさ」に閉口していた。また、着衣の有無に象徴されるルールの違いも埋められないことを知っていた。岡部は著書にこう書いている。

 「ルールを緩めれば真剣勝負、果たし合い以外にない。それはもはやスポーツではない」

 岡部は嘉納とその場で決別。二度と会うことはなかった。岡部にとっては「生涯における一番寂しい記憶」となってしまう。

 しかし、そのことが「岡部は破門された」と伝わり、スポーツ界で主流になれない要因となった。結局、問題になった異種対抗試合は、他にも反対論が出たため実現しなかったのだが…。

 =文中、写真とも敬称略

※小説「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)」(著者・橘京平、幻冬舎刊、1,200円)が好評発売中

=2019/01/12付 西日本新聞朝刊=

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