【花宗川の詩 八女筑後大木大川】(12)若津港 時代の流れとともに

若津の新たなにぎわいの場となっている大川テラッツァ
若津の新たなにぎわいの場となっている大川テラッツァ
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三潴軌道が通っていた昭和初期の若津の商店街(三川屋提供)
三潴軌道が通っていた昭和初期の若津の商店街(三川屋提供)
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 矢部川の花宗堰(ぜき)から西へ23キロ。花宗川の緩やかな流れは、大川市の若津港で筑後川と合流する。潮の香り漂う静かな河川港。かつて、ここに大型船が出入りし、博多港をもしのぐにぎわいだったと想像するのはなかなか難しい。

 江戸時代、筑後川と花宗川を下って集められた久留米藩の年貢米は、若津港で廻米船(かいまいせん)に積み替えられ、米の先物取引市場があった大阪・堂島へ送られ、藩財政を支えた。明治になっても米の流通拠点としての重要性は変わらず、1880(明治13)年には大蔵省が米の価格を調整する「蔵所」を置き、85年には大阪-若津の定期航路が開設された。

 港だけではない。若津の商店街には三潴軌道の蒸気機関車(SL)が走り、遊郭街(弥生町)もあった。最盛期は21軒の郭(くるわ)と、100人を超える遊女がいたという。

 「昔は遊郭の入り口に木の門があってね。中ではきれいに着飾ったお姉さん方が歩いていたよ」。この地に生まれ、20歳の時からクリーニング店を経営する執行安美さん(81)は往時を懐かしむ。当時は町内にたくさんの子どもたちがいて、若津神社の「少将祭」(4月)は大変なにぎわいだったという。遊郭は1958年の売春防止法の施行とともに姿を消したが、建物は当時まだ珍しかったアパートに改装されたそうだ。

 若津をさらににぎやかにしたのは大川家具の発展だった。1876(明治9)年創業の料亭・旅館「三川屋」の6代目女将(おかみ)、大和寿子さん(52)は小学生のころ、毎晩のように数百人規模の宴会が開かれていたことを思い出す。「下足番をしていたら、木工所や家具店の社長さんたちにかわいがられて、お小遣いをたくさんもらいました」と笑う。

 その後、福岡市や北九州市の港の急速な発展を受け、若津港は歴史的役割を終える。若津も繁栄の跡をそこかしこに残す、ひなびた住宅街となった。

 その若津に今春、にぎやかな声が戻ってきた。市が筑後川昇開橋のたもとに整備した観光・インテリア情報ステーション「大川TERRAZZA(テラッツァ)」だ。地域の特産品を販売するほか、イベント会場としても重宝されている。国鉄佐賀線が走っていた当時をイメージしたコンテナを使ったおしゃれな建物が並び、最近では会員制交流サイト(SNS)への記念写真の投稿を目的にした「インスタ女子」でにぎわっている。

 八女農業、坂本繁二郎、郷場、風浪宮、片葉のヨシ、そしてはやりの新スポットへ。矢部川と筑後川という二大河川を結ぶ花宗川はそれぞれの地域で歴史や文化を育んできた。その緩やかな流れは今日も変わらない。花宗川の詩は終わらない。 =おわり

=2017/10/18付 西日本新聞朝刊=

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