水俣病市民会議設立50年「人間回復の力になった」 第1次訴訟から関わる伊東さん [熊本県]

「患者・家族が人間としての存在を回復するための手伝いをできたことが、市民会議の一番の成果」と語る伊東紀美代さん
「患者・家族が人間としての存在を回復するための手伝いをできたことが、市民会議の一番の成果」と語る伊東紀美代さん
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 12日に設立50年を迎える水俣病患者の最初の支援団体「水俣病市民会議」。1969年6月の水俣病第1次訴訟提訴直後から活動に関わった支援者の伊東紀美代さん(75)に、半世紀の歩みと今を聞いた。

 -設立当初の状況は。

 「とにかく訴訟派の患者・家族は生活に困っていたので、まずお金の工面が必要だった。陳述書を作るのに1人1世帯を担当し、私はもう1人と3家族を受け持った。チッソ側の切り崩しに合わないように、いつも神経を使っていた」

 -訴訟中の雰囲気は。

 「補償金は夢のまた夢で現実感はなかった。とにかくチッソの責任を問いたいという思いが強かった。裁判の日はみんなでバスに乗って、帰りに日奈久でちくわを買って焼酎を飲んで。車中で事務局長の松本勉さんが裁判の報告をしていた。緊張感はあった」

 -市民会議の役割とは。

 「会長の日吉フミコさんは、常に患者のことを第一に考える。姿勢が一貫しているから、少なくない人が共感した。患者たちはいわれなき負荷を背負わされて差別されていた。市民会議は、その人たちが人間を回復する力になったと思う」

 -半世紀を振り返って、今思うことは。

 「(感覚障害のみでも水俣病と認定できるとした)昨年11月の新潟水俣病を巡る東京高裁の判決は、『患者の生活史、疫学的資料から判断して、指定地域の水質汚濁の影響を否定できない場合は水俣病と認める』とした71年の旧環境庁裁決と内容的に同じ。(50年近くも)何をやっているんだという気もするし、歩みは遅いけれども確実に、少しずつは前進したり、変えたりはしてきている」

 「水俣の地元の人たちも、『チッソに盾突く患者たちが悪い』と当時のように表だって言う人はいなくなった。そういう変化を感じている」

=2018/01/11付 西日本新聞朝刊=

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