明治期の日田に児童福祉の先駆的施設「養育館」 門前に子を置くこと容認 [熊本県]

養育館の外観を描いた絵。大分県日田市の咸宜園教育研究センターで開催中の企画展で展示されている
養育館の外観を描いた絵。大分県日田市の咸宜園教育研究センターで開催中の企画展で展示されている
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日田市の街角にひっそりと立つ養育館の碑
日田市の街角にひっそりと立つ養育館の碑
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 明治になって間もない現在の大分県日田市に、捨て子や孤児、貧しい家庭の子を育てた「養育館」という施設があった。子どもと里親をつなぐ役割も担い「近代日本初の児童養護施設」とも称された。その姿は、慈恵病院(熊本市)の「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)にも重なる。支えたのは日田の人々の善意と寄付だった。

 養育館の沿革や日田市史などによると、江戸末期の慶応年間から続く飢饉(ききん)の影響もあり、日田でも3人目の子の中絶や生まれた直後に命を絶つ「間引き」、捨て子にするといった悪習があった。日田の私塾「咸宜園(かんぎえん)」で学んだ元首相清浦奎吾(けいご)は、「料理屋」「芸者屋」が軒を連ねた天領時代の日田を「風紀の余り宜(よろ)しからぬ所で、棄児堕胎『マビク』とか云(い)ふやうな弊が多かった」と述べている。

 こうした状況に心を痛めたのが、大久保利通の推挙で日田県知事として赴任した薩摩藩士、松方正義だった。松方は咸宜園門下生の医者たちと協力して養育館設立を計画。日田の豪商からの寄付金も受けて1869(明治2)年6月に完成させた。養育館の歴史を調べる咸宜園教育研究センター(同市)の溝田直己さんは「危機感を抱いた日田の人たちが力を合わせて建てた」と解説する。

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 養育館は医師や産婆(助産師)、養育係の他、村々に数人の「周旋方」と呼ばれる現代の児童委員のような人物を置いた。孤児や棄児の捜索、調査に当たり、配偶者のいない妊婦を見つければ両親を含めて中絶しないよう説得し、約束させたという。門前に子どもを置いていくことを認めると、夜間に子を置いて去る人が相次ぎ、150人余りに達したと記録に残る。親が育てられない子を匿名で預かる「こうのとりのゆりかご」に通じる活動だった。

 養育館の子どもは乳母に育てられ、長崎から購入した乳牛から取る牛乳も与えられた。養子養女を求める申し出も受け、希望者が多ければ抽選で里親を決めたという。職員はいずれも無報酬だった。

 こうした活動は当時の皇后からも称賛されたが、寄付や善意だけでは運営が立ちゆかなくなり、72(明治5)年末で受け入れを停止。翌年に閉鎖された。養育館が関わった妊婦(胎児)は366人で、育てた子は192人。はびこっていた悪習は「殆(ほとん)ど後を絶ち、風教大いに改まるに至った」と伝わる。

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 公爵松方正義伝は、養育館で育てられ、成長した10代半ばの子らと松方が会ったことを記す。養父母の元で幸せに暮らした者や、孝行者と評判になった者がいるとし、松方は「是等(これら)の若者に逢(あ)ったのは、何とも云へぬ嬉(うれ)しさであった」と感慨を語っている。

 日田市の中心部にある駐車場の脇に「日田養育館址」と刻まれた石碑がひっそりと立つ。咸宜園教育研究センターでは12月28日まで、養育館の沿革や外観の絵を展示中。溝田さんは「こうした児童福祉の先駆的な施設が日田にあったことを知ってほしい。子どもを巡る悲しい事件が相次ぐ中、養育館の功績や精神から学ぶものがあるはずだ」と話す。

=2018/11/21付 西日本新聞朝刊=

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