日米の懸け橋90歳活躍 ボランティア通訳の立石さん 戦争で失った友の思い継ぐ [長崎県]

通訳のボランティアガイドとして外国人との交流を図る立石さん
通訳のボランティアガイドとして外国人との交流を図る立石さん
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 ボランティアの通訳ガイドで活躍する男性がいる。佐世保市黒髪町の立石佐次郎さんは、米軍佐世保基地の家族や市内にクルーズ船などでやって来る観光客を得意の英語でもてなしている。かつて敵国として戦った相手米国との懸け橋役も務める90歳だ。

 11月18日。佐世保市在住の外国人と日本人が展海峰や三川内焼の絵付け体験など市内の観光地を巡るバスツアーに立石さんはガイドとして招かれた。車中や名所で外国人に巧みな英語で説明し、交流を図った。「サンキューベリマッチ」。感謝の言葉がうれしい。「これが楽しい。コスモポリタン(国際人)になった気がする」と満足げだ。

 30代半ばで海運会社に就職し、鉄鉱石などを運ぶ大型船の船長を務めた。戦後、英語教員だったこともあり、定年退職する58歳まで欧州やアジア、アフリカなど世界各国を巡り、言語をマスター。上陸した際、現地で聞く生の会話が最高の教科書だ。インドネシア語、フランス語もこなす。満天の夜空に大海を望む船上でテキストを手に貪欲に吸収した。

 旧制佐世保中(現佐世保南、北高)を卒業後、医師になるため、長崎医学専門学校(現長崎大医学部)を目指したが太平洋戦争の戦況が悪化。「海軍に入ってお国のために役に立ちたい」と神戸高等商船学校(現神戸大)に入学した。練習船に乗っていた神戸沖では米軍の空襲に遭い、奇跡的に助かったが、多くの仲間を失った。1945年8月に長崎に原爆が落とされ、行きたかった長崎医学専門学校に進学した中学時代の友人7人を亡くした。

 「命拾いした身。彼らの思いを継いで、人の役に立ちたい」。定年退職して約10年間、長崎原爆資料館でボランティア通訳ガイドを務めた。週1回、佐世保から車で通い、戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えた。趣味のテニスとともにボランティアを生きがいにした。

 海運会社に就職する前、当時、朝鮮戦争のまっただ中にいた米軍の貨物船に乗った。まだ米国への憎しみは残っていたが、明日への糧のためだった。横浜港から外洋に向かう際、盲腸で腹部に激痛が走った。船長はすぐに進路を変更、神戸港に寄港し、立石さんを下船させ病院に運んでくれた。「当時なら普通、寄港なんてしてくれない。遅れてしまえば、多大な経済的損失が出る。でも日本人も平等に扱ってくれた」。人としての尊厳と命を大事にする姿。米国人への憎しみは消えた。

 3人の子どもを育てた立石さんは、2年前に60年以上連れ添った妻のモトさんを亡くした。自身も3度の心筋梗塞を患った。悲しみと苦しみが重なったが、6月5日の90歳の誕生日。「ハッピーバースデー♪ツーユー♪」。通訳などで世話をしてきた米軍上官や知人らが集まり、突然のバースデーパーティー。「うれしかった」と実感がこもる。「元気にしている限り、何でもやりたい」。カレンダーを見ながら次のボランティアの出番を待つ。

=2017/12/06付 西日本新聞朝刊=

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