藩主・棟に綱吉の信 平戸城再築、なぜ例外許可 松浦史料博物館の久家さん調査 将軍側近と縁戚関係 [長崎県]

平戸城再築を成し遂げた藩主、松浦棟
平戸城再築を成し遂げた藩主、松浦棟
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平戸城の再築願い時に提出された絵図の控え=松浦史料博物館蔵
平戸城の再築願い時に提出された絵図の控え=松浦史料博物館蔵
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再築城後の平戸城。天守閣(中央上)は2層と小規模だった(明治期の作)=松浦史料博物館蔵
再築城後の平戸城。天守閣(中央上)は2層と小規模だった(明治期の作)=松浦史料博物館蔵
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 平戸藩の平戸城が、江戸幕府が一国一城令で規制する中、外様大名でありながら幕府から築城を許されたのは、当時の5代藩主松浦棟(まつらたかし)が将軍徳川綱吉の信頼を得て幕府の要職に重用されていた事情が背景にあることが、平戸市の松浦史料博物館の学芸員久家孝史さんの史料調査で明らかになった。今年、築城300年を迎える平戸城の誕生史話として注目されそうだ。

 久家さんが「家世年表」など藩の公文書や家臣の記録を解読したところ、綱吉の側近、牧野成貞が4代藩主天祥鎮信(しげのぶ)のいとこにあたると判明。鎮信は江戸城では城持ち譜代大名と同列に処遇され、藩主を後継した棟は綱吉のそばに仕える大名「奥詰(おくづめ)」となった。

 棟は1691年には奏者役と寺社奉行に出世し、日光東照宮に綱吉の名代で参詣したこともある。長男の長(ながし)は小姓として江戸城内の紅葉山に綱吉の刀剣を持って随行したり、家屋敷を与えられたりしていた。

 初代藩主法印鎮信(しげのぶ)が最初に建てた「日の岳城」は、豊臣秀吉と親交があった松浦家を警戒する家康の疑いを払うため鎮信自ら焼却。鎮信は離れた町人街の政庁(現在の松浦史料博物館)に移り住み、再築城は松浦家の悲願となった。

 棟は1698年、日の岳城跡に残った石垣の雑木払いなどを家臣たちに指示し、再建の意思を伝えた。1702年10月に幕府に再築願いを出したと見られるが、03年2月23日に再提出し、その数日後には許可が下りた。04年に着工、18年に完成した。

 久家さんは「当時は文治政治の下、謀反のとりでにもなる城の築造は困難で、中でも外様大名にはとても無理な話だったと思う。なぜ棟が例外的に再築を認められたか、藩の古文書などから読み解くと、綱吉との密接な関係が浮かび上がってきた。再築城しなければ、秩序だった藩運営が難しかったのではないか」と話している。

 ◆平戸城 平戸瀬戸へV字型に突き出た石垣が特徴。最初の城は1607年までに初代藩主鎮信が築いた日の岳城。城の様子は記録に残っていない。棟が再築した城の天守閣は二層(高さ約8.7メートル)で、二の丸の三層の乾櫓(いぬいやぐら)(高さ16.5メートル)が実質的な天守閣。「天守閣は控えめで、海や本土側から見えない奥に少し大きめの櫓を配し、幕府への遠慮がうかがえる」と久家さん。費用は銀1180貫(現在の約15億円)で、家臣の俸禄2割削減、領民の年貢2割増しで捻出。延べ55万人が工事に従事した。1873(明治6)年に廃城。今の平戸城は1962(昭和37)年に平戸市が新たに建てた。

=2018/01/10付 西日本新聞朝刊=

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