戦時の造船部隊に受刑者 長崎市・深堀に鹿児島から2000人 大隊長だった記者の祖父、足跡たどる [長崎県]

かつて川南工業深堀造船所があった長崎市深堀。現在は別の会社の造船所や関連企業の工場が立ち並ぶ
かつて川南工業深堀造船所があった長崎市深堀。現在は別の会社の造船所や関連企業の工場が立ち並ぶ
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山本兵四郎氏(撮影は1939年)
山本兵四郎氏(撮影は1939年)
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 戦時中、不足していた輸送船を大量に建造するため、全国の造船所に刑務所の受刑者が動員された。深堀町(現長崎市)の川南工業深堀造船所にも鹿児島刑務所などからの約2千人が移され、溶接や鋲(びょう)打ちなどの作業に就いた。「深堀造船部隊」と呼ばれ、1年半余りで159隻を建造したという。刑務官だった私の父方の祖父は終戦まで、この部隊を統括する大隊長を務めていた。一般にはあまり知られていない造船と刑務所の秘話を、祖父の足跡をたどりながらひもとく。 (山本敦文)

 公益財団法人「矯正協会」が1966年に発刊した「戦時行刑実録」(非売品)という本がある。昭和初期から終戦までの司法行政に関する資料をまとめた、1600ページに及ぶ大著だ。

 それによると、海軍省の要請に司法省が応じる形で、受刑者を造船の労働力に動員する計画がまとまったのは42年暮れ。戦況の悪化で戦線へ軍需物資を運ぶ民間船の不足が深刻化していた。戦時下とはいえ、受刑者を逃亡の恐れがある「塀の外」に連れ出し、作業に就かせる措置は異例のことだったらしい。造船業界の反対も押し切り、政府は深堀を含む全国4カ所の簡易造船所と、受刑者による「造船部隊」の創設を閣議で決めた。

 この「実録」に祖父の証言が収められている。長崎刑務所浦上刑務支所(長崎市)などを経て部隊の大隊長として着任した祖父は、当時の深堀造船所をこう振り返っている。

 「海岸埋め立て地に急造された露天の造船所であり、(受刑者と)戦時徴用者、外来雇用人夫が混在していた。刑務所職員も収容者も北海道、沖縄と全国各地から派遣されて来ているものであり(中略)感情の融和、統一をはかることの至難な点があった」

 祖父の名は山本兵四郎という。私が生まれて2カ月後の68年2月に80歳で亡くなっており、明治生まれのいかめしい顔は遺影でしか知らない。戦時中の話は昨年営まれた五十回忌の法要の席で初めて知った。

 諫早市にかつての祖父母の居宅がある。土蔵を改装した倉庫には、祖父が刑務官になった頃の1919(大正8)年から亡くなる直前までの日記が本棚に残されていた。ただ、私が戦時中の祖父の足跡をたどる上で読みたいと思った、部隊発足時の43年と、終戦の45年の日記はなぜか見当たらなかった。

   ■    ■

 川南工業は1934年に設立。当初は缶詰製造会社だったが、創業者の川南豊作氏は、倒産した香焼島(現長崎市)の造船所を買収し、造船業に乗り出している。軍部との結びつきを強めて貨物船を中心に業績を急激に拡大。42年の造船量は、三菱長崎に次ぐ全国2位に飛躍していた。深堀造船所は香焼島の対岸に設けられた。

 政府が「深堀造船部隊」に命じたのは、二重底をなくすなど構造を簡素化した戦時標準船「E型船」の年間100隻建造。祖父の44年の日記には、こんな言葉が頻繁に書き込まれている。「休みなしの連日の産業戦線」(1月31日)「来る日も来る日も造船増強」(5月14日)…。

 当時の工場長の証言によると、深堀造船所で働いていたのは技術者などの社員500人、朝鮮人を含む徴用工約2千人、鹿児島刑務所の受刑者約2千人。受刑者は脱走防止のため青色の服を着せられており、「青部隊」とも呼ばれていた。祖父は他の刑務官や受刑者と同様、食堂や倉庫などを改装した造船所内の宿舎で寝泊まりしながら連日、作業を監督していたらしい。

 過酷な目標を達成するため、祖父が取った行動は毎朝の職員を集めての訓示だった。「実録」には「山本大隊長の訓示は『からすが鳴かなくとも…』と言われるほど毎日行われた」と記されている。受刑者にも厳しく当たったらしく「(受刑者は)『山本を殺せ』という不穏な空気を漂わせていた」。

 日記には空襲警報や防空壕(ごう)の記述もある。2千人の受刑者を監督して造船作業に従事させる日々は、祖父にとってまさに命がけの任務だったのだろう。

   ■    ■

 祖父は原爆を目の当たりにしていた。

 45年8月9日、長崎原爆投下。閃光(せんこう)と爆風は爆心地から約10キロ離れ、その間は海が広がるだけで遮るものがない深堀造船所にも達した。造船所の窓ガラスは粉々になった。戦後、祖父は子どもたちに「あのときはものすごい爆風で倒された」と言葉少なに振り返ったという。市街地の上空に立ち上る、不気味なキノコ雲も見たはずだ。

 終戦を迎えても、祖父たちは「敗戦の感情を露骨に表現することは許されなかった」(「実録」より)。部隊の秩序を保ちながら、仮釈放後に残った約700人の受刑者を鹿児島刑務所まで移送する任務が残っていた。祖父が、その責任者を務めている。

 「引き揚げを無事に完了することは重大な責務だった。受刑者はもちろんのこと、職員もほとんど放心状態にあった。最後において事故を起こすようなことがあっては、これまでの部隊の苦労も全部水泡になってしまう」(同)

 移送は10月に行われている。受刑者を乗せた長崎駅発の貨物列車は一昼夜かけて西鹿児島駅に着き、そこから刑務所まで歩いて行進した。最後の任務を終えた瞬間、祖父は涙を抑えることができなかったという。

   ×    ×

 戦後、祖父は刑務官を退職し、諫早市で農業を営んでいる。爆心地から半径12キロが要件となる「被爆体験者」の申請はしていない。

 深堀造船所があった場所は現在、別の会社の造船所や関連施設が立ち並び、対岸の香焼島とは陸路で結ばれている。それぞれの会社や工場に尋ねたが、祖父がいたころの施設の痕跡は何ひとつ残っていなかった。

=2018/02/10付 西日本新聞朝刊=

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