90歳、不戦誓う「自分史」執筆 多くの友…次々と犠牲に 死と隣り合わせの日々 [長崎県]

パソコンに向かって自分史をつくる立石さん
パソコンに向かって自分史をつくる立石さん
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現在も通訳のボランティアガイドとして外国人との交流を図る立石さん
現在も通訳のボランティアガイドとして外国人との交流を図る立石さん
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戦後、佐賀県内で英語教師を務めた当時の立石さん(2列目中央)
戦後、佐賀県内で英語教師を務めた当時の立石さん(2列目中央)
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 太平洋戦争で多くの友を亡くし、自身も死線をさまよった。戦後、外航船の船長を務め、定年退職後は得意の外国語を生かして長崎原爆資料館でボランティアガイドを務めた。戦争の悲惨さも、平和の尊さも、肌で知る。佐世保市在住の立石佐次郎さん(90)は2月下旬、自分史の執筆を始めた。タイトルは「波瀾万丈(はらんばんじょう)の我(わ)が人生航路」。

 執筆のきっかけは友人の勧めだった。「誰もが経験できない生き方。未来に残していくべきでは」。そうして書き始めた若き日のほとんどは、死と隣り合わせのつらい戦争体験だ。

 旧制佐世保中(現佐世保南、北高)に入学した1940年当時、長崎医学専門学校(現長崎大医学部)に進んで医師になる道を志していた。だが、太平洋戦争開戦で一変した。次第に「早く海軍に入ってお国のためにこの命を殉じるしかない」と思うようになった。3年後、船の知識や技術が学べる神戸高等商船学校(現神戸大)に入った。

 戦火は関西にも及んだ。「敵機編隊が紀伊半島南方を北上中」。ラジオ放送が流れるたびに、防空壕(ごう)に入った。神戸市内にあった校舎は45年5月の大型爆撃機B29の爆撃で廃虚になった。航空機の製造工場が隣接していた。練習船に乗っていた際も空襲に遭い、他の練習船に乗っていた同僚が死んだ。誰とも分からない遺体を集め、運動場で火葬した。何日も同じ作業に「感覚がまひしていた。今も記憶があいまい」。死臭が服や体にこびりついたことだけは覚えている。

 8月9日、長崎に原爆が落とされた。長崎医専に通っていた旧制佐世保中時代の親友7人が犠牲となった。一時は同じ道を志した仲間の死に「もし自分も同じ道を歩んでいたら、確実に命はなかった」。

 終戦から数日後、神戸から疎開先の佐賀県に列車で向かったが、広島駅で悲惨な状況を目の当たりにする。黒焦げの多くの死体。また死臭が鼻をついた。下車し、原爆の影響で曲がりくねった線路を歩き、何回も乗り換え、2日かけてたどり着いた。「このつらさは子どもたちには味わわせたくない。仲間のために生きなきゃならない」と“不戦の誓い”をした。

   ■    ■

 戦後、佐賀県内の中学で英語教師を務めた後、30代半ばで海運会社に転職。鉄鉱石などを運ぶ大型外航船の船長を務めた。定年退職する58歳まで欧州やアジア、アフリカなど世界各国を巡り、英語のほかにインドネシア語、フランス語をマスターした。

 退職後は「戦死した仲間たちを弔うためにも」と約20年間、長崎原爆資料館でボランティア通訳ガイドを務めた。週1回、佐世保から車で通い、外国人に自身の体験を交え戦争の悲惨さを伝えた。

 そこで出会ったのが、取材で長崎を訪れたフィンランドのテレビアナウンサー、1歳年下のカイ・レトーネンさん。友人を弔うためにボランティアを務める姿を取材され、現地のテレビで紹介された。「こうした地道な活動が世界の平和につながるんだ」。千羽鶴を送ったり、文通をしたりして今も交流している。

 現在、佐世保市在住の外国人が市内を巡るバスツアーにガイドとして同行する。「とても90歳には見えない。英語も達者。すごい日本人」と驚かれる。米軍佐世保基地の職員たちとも仲がいい。基地内の講習で着任間もない職員の家族に日本での生活の仕方を教えた。かつての敵国だが「憎しみなんてない。彼らとの交流が最高の務め。これが不戦の誓い」。

 基地の町・佐世保。朝鮮半島の動向も気になる。5月までに仕上げる自分史にたくさんのエピソードを書きながら、あらためて思う。「戦火を交えることは絶対にならない」。この誓いも加える。

=2018/03/10付 西日本新聞朝刊=

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