もう一つの悲劇、忘れないで 島原「千本木大火砕流」25年 元住民の古里への思い [長崎県]

大火砕流で灰色に覆い尽くされた千本木地区(手前)。右奥が眉山=1993年6月24日(本社機から撮影)
大火砕流で灰色に覆い尽くされた千本木地区(手前)。右奥が眉山=1993年6月24日(本社機から撮影)
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砂防ダムが整備され、緑化も進んだ現在の千本木地区(手前)。土石流から市街地を守る役割を果たしている。右は眉山=2016年5月(溶岩ドームから撮影)
砂防ダムが整備され、緑化も進んだ現在の千本木地区(手前)。土石流から市街地を守る役割を果たしている。右は眉山=2016年5月(溶岩ドームから撮影)
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自宅があった付近に立つ橋本徹也さん。この日、眉山(左)の隣に見えるはずの溶岩ドームは雲に隠れていた
自宅があった付近に立つ橋本徹也さん。この日、眉山(左)の隣に見えるはずの溶岩ドームは雲に隠れていた
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 雲仙・普賢岳の噴火災害で、1991年6月3日に島原市北上木場地区で43人が犠牲となった大火砕流から約2年後の93年6月23日。同市千本木地区を襲い、住民1人が亡くなった「もう一つの大火砕流」が起きた。「6・3」は追悼行事が毎年開かれるが、同様に地域の営みが奪われた「6・23」はあまり注目されない。発生から25年たった23日、地区住民だった元小中学校校長の橋本徹也さん(82)と被災地を歩いた。

▼島原の「奥座敷」

 「あれが木登りしたクスノキ。あそこの水辺ではメダカをすくったなあ」。橋本さんはかつて自宅があった周辺で、幼い頃の思い出を語った。

 普賢岳を南西に望む千本木地区。うち橋本さんの家は約80戸が並ぶ上折橋町で、7人のきょうだいや、自身の子ども3人も育った。至る所にある湧き水で生活し、昼は隣の島原四小折橋分校から元気な声が響き、夜はカエルが大合唱した。

 山手の北千本木町や南千本木町には茶畑が広がり、ろうそくの原料となるハゼの実の一大産地でもあった。夏は湧き水を使うそうめん流しの店に、観光客が押し寄せた。

 「自然豊かで風光明媚(めいび)な地域だった」と橋本さん。南に眉山、西に焼山と、いずれも昔の噴火で形成された山に囲まれ、別荘も点在。「島原の奥座敷」。ある郷土史家はそう呼んだ。

▼町一帯が灰色に

 「まさか、だった」

 千本木地区の南約3キロ、北上木場地区で43人が犠牲となった大火砕流のことはもちろん知っていた。約1カ月前から火砕流が北東に流れ、避難勧告も出ていた。だが自分たちの町は大丈夫と思っていた。

 当時、市内の小学校校長だった橋本さんら一家は避難先にいて無事だったが、自宅の近くでは民家が焼け落ち、瓦がただれた。姉の嫁ぎ先では牛舎が燃えて骨組みだけに。慣れ親しんだ折橋神社も焼き尽くされた。古里は灰色に一変した。

 自宅はぎりぎり被害を免れたが、国はその後、千本木地区のほぼ全域を砂防指定地とし、砂防ダムを造ることを決定。故郷に戻る可能性は消えた。「絶対に直視できなかった」。数年後、自宅が壊される日、橋本さんはわざと学校の仕事で出張を入れ、現地に行かなかった。分校も廃校となった。

▼島原を守る「盾」

 橋本さんは国見町(現雲仙市)に建てた家で約20年住み、4年ほど前、上折橋町に隣接し、砂防指定外の下折橋町に移り住んだ。

 ダム内の自宅跡周辺は今、国の特別な許可を得て、市内の有志が四季折々の花を育てる公園になり、自由に出入りできる。橋本さんも時折、訪れて花を楽しみながら昔を振り返る。

 砂防ダムの上から見渡すと、散り散りになった地域住民の顔が思い浮かぶ。「みんな移転を受け入れた。島原の将来を守りたい、そう強く願ったからだ」

 8基の砂防ダムは、現在も大雨で発生する恐れがある土石流をせき止め、同地区から島原湾へ延びる中尾川への流入を抑える役割を負う。「ダムがなければ中流、下流域を土石流が襲う。私たちの古里はその『盾』になっている」と思う。

 98年、橋本さんは町内会の解散に合わせた180ページ超の記念誌「心のふる里 わが上折橋」をとりまとめた。多くの元住民が新聞ちらしの裏などに思いをつづった原稿を寄せた。ある住民は「ご先祖様が鍬(くわ)と鎌で築いた上折橋の地を、どうか皆様いつまでも忘れないでください」と書いた。

 だが25年がたち、災害の歴史は忘れられがちだ。橋本さんがつぶやいた。「自然、時間の経過にはあらがえない。でも次の噴火で犠牲者が出ないように学ぶことは忘れてほしくない」

=2018/06/24付 西日本新聞朝刊=

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