「傷口からウジ」懸命の被爆者救護…母の体験、紙芝居に [長崎県]

被爆者が収容された教室を描いた紙芝居の場面。「長崎原爆戦災誌」によると多いときは1教室に40~50人が収容された
被爆者が収容された教室を描いた紙芝居の場面。「長崎原爆戦災誌」によると多いときは1教室に40~50人が収容された
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被爆者を収容した当時の長田国民学校校舎
被爆者を収容した当時の長田国民学校校舎
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空襲に遭った久留米の街の場面
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山下豊子さん
山下豊子さん
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 「包帯の下がモゾモゾと動きます。ウジです。丸々と太ったウジが傷口からわき上がってきます」-。諫早市の被爆2世、山下豊子さん(62)が長崎原爆被爆者の看護に携わった母親の体験をつづった紙芝居「母、八千代の記憶」を制作した。原爆投下後、諫早には多くの被爆者が列車などで運ばれ、救護や死体処理に当たった市民も被爆した。山下さんは「母が体験した諫早の『原爆』を後世に伝えたい」と話す。

 原爆投下時、山下さんの母八千代さん(故人)は16歳。1945年8月12日、挺身隊として赴いていた福岡県久留米市で空襲に遭い、火の海となった街を逃げ回った。その時の場面を紙芝居はこう描く。

 途中には、爆撃を受けた家や、焼けて真っ黒になった、おそらく人間であろうと思うかたまり。

 「助けてください」と身にやけどを負った人がたくさんいました。(中略)

 「ごめんなさい、ごめんなさい」

 ただ身をすくめ、道行く人に置いていかれないように速足で歩きました。

 諫早に戻るよう命じられた八千代さんは必死の思いで満杯の汽車に乗り込む。だが乗客は手前の湯江駅(諫早市)で降ろされ、八千代さんは17キロ離れた諫早市長田地区の自宅まで歩いた。汽車は長崎の被爆者を運ぶために徴用されたのだ。やっとの思いで自宅にたどり着くと両親は不在で幼い妹しかない。翌日、疲れ果てて帰宅した母が涙を流しながら言った。

 「八千代、あんたもきつかったろう。そいばってん明日、私の代わりに学校に行ってくれんやろうか…。うちはもう行ききらんけん。もうみとりきらんとよ」

    ◆   ◆

 「長崎原爆戦災誌」(長崎市編さん)によると原爆投下後、救援列車の拠点となった諫早市には多くの負傷者が運ばれ、諫早海軍病院や夏休み中の学校に収容された。八千代さんの自宅近くにあった長田国民学校もそのひとつ。8月11~16日ごろまでに約200人(一説には300人)が運ばれたという。母の代わりに校舎を訪れた八千代さんが見たのは、想像を絶する光景だった。

 リヤカーに乗った死体に群がるハエ。人間の腐った臭い。教室にも廊下にも充満してました。

 そこへ負傷者が運ばれてきます。

 「痛い~」「水~」「水をください」「助けて~」と弱々しい声で。

 薬はなく、傷口を水拭きし、ウジを取るだけの看護。やがて死体に巻いていたむしろもなくなり、「助からない」と判断された重傷者は憲兵の指示で外へ運び出された。

 八千代さんの父は死体処理に携わった。「戦災誌」には死体処理場所のひとつに「長田町無縁墓地」が記載されているが、詳しい埋葬人数などは分かっていない。帰宅した父の姿に八千代さんは息をのんだ。

 全身血と炭と汗が入り交じった異様な姿と臭いです。(中略)「一眠りしたらまた行かんばいけん」と汚れた体を洗っていましたが「こりゃあいっちょん取れんばい」と何度もこすっていました。

    ◆   ◆

 山下さんが「被爆二世の会・諫早」の語り部活動の一環で、生前の八千代さんから聞いた体験をまとめたのは3年前。知人の薦めもあり、今年3月から紙芝居の制作に取り組んだ。脳梗塞を患い利き手の右手にまひが残るため、左手で16枚の絵を描き、色鉛筆で丹念に色を塗った。

 生前の八千代さんは就寝中にうなされることが多かったという。何を思いだしていたのだろう。空襲で焦土となった街か。教室に横たわる被爆者のうめき声か-。紙芝居は八千代さんが娘や孫に言い聞かせていた言葉で締めくくっている。

 何の罪もない人が簡単に殺される。それが戦争だよ、あんたたちは絶対反対せんばよ。今度あったら日本はなかごとなっとやけんね…。

=2018/09/20付 西日本新聞朝刊=

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