県、市譲らぬ「一等地」 県庁舎跡地活用、長引く協議 広場かホールか、地形もネック [長崎県]

出島表門橋から眺めた旧県庁の本館(正面)。出島を見下ろす小高い丘の上にある
出島表門橋から眺めた旧県庁の本館(正面)。出島を見下ろす小高い丘の上にある
写真を見る
写真を見る

 旧県庁舎(長崎市江戸町)の跡地活用策を巡り、県と長崎市が7月に再開した協議が難航している。県は当初から「文化芸術ホール」や広場の整備を構想しているが、市がJR長崎駅西側で計画する大型コンベンション(MICE)複合施設との「重複」を避けるとし、結論を先送りしてきた。MICE計画が市議会の承認を得たことで、その不安と課題は解消されたはずだったが…。新たな“足かせ”の背景を探った。

 「ホールの具体的な『配置』について県と市の考えが異なっている」。9月市議会の一般質問。市幹部が協議が進展していない現状を説明した上で、内情を明かした。昨年9月に市が解体した文化施設「市公会堂」の後継施設であるホールは、長崎市民の関心が高い。

 県議会でも同じ質問が飛び、中村法道知事は答弁で「配置」に加え、「規模」に言及した。「市が求めているホールは公会堂の約2倍の広さがある。これでは調整が必要になる」

 県庁は小高い丘の上、出島を見下ろす場所にあった。かつて長崎奉行所が置かれ、江戸時代に築かれた由緒ある石垣が残る「長崎の一等地」だ。

 誰もが一刻も早い活用を望んでいるのだが、配置と規模を巡る県と市の調整は容易ではなく、中村知事もその時期について「できるだけ早く」と言うにとどめる。複数の幹部によると、7月に本格再開した協議はかねて難航が予想され、水面下では1年前に始まっていたという。

        ◇

 問題の根っこは複雑な地形にある、とされる。旧県庁は本館のほか第1~3別館から成り、丘の「上」の本館玄関と、「下」にある別館では最大7・3メートルの高低差がある。「下」はかつて海だった埋め立て地だ。

 県は跡地に「ホール」のほか、情報発信拠点や飲食、土産物店を備えた「交流・おもてなし空間」、長崎くんちの演(だ)し物などイベントを開ける「広場」-の三つの機能を持たせる考え。その中でも広場を最も重視しており、中心市街地とのアクセスも考慮して「上」に据える方針を示す。「出島、港方面へ抜けることができ、開放感にもあふれている」というのが大きな理由だ。

 ところが、市はホールを「上」にしたい。音楽や演劇団体、芸術アドバイザーなど40の団体と個人に聞き取り調査をしたところ、「舞台と楽屋を同じフロアにしてほしい、という意見が多かった」(市文化振興課)。その場合、床面積が広くなるため「下」では敷地が狭すぎて、江戸期の石垣を撤去する必要がある。文化財保護の観点からもそれは避けたい、というわけだ。

        ◇

 広場とホール。どちらの機能を県庁跡地のメインに据えるか。この問題は単純なようで、奥深い。

 県都の一等地は、県全体を代表する「顔」であるべき、と県は考える。「広場だと幅広く活用でき、観光客も集えるため交流人口拡大にも有効」との言い分には一理ある。一方で、県庁内ではこんなささやきも聞こえる。「長崎市の思うようになれば、市外選出の先生(県議)が黙っていない」。実際、県央地区のある県議は「一番目立つ場所に市立ホールがくるのはおかしい。非常識だ」と憤る。県の姿勢には「論」と同時に「配慮」も透ける。

 市がホールの配置と規模にこだわることには、別の視線も向けられている。昨年解体した公会堂は文化団体などの強い反対を浴び、2度にわたって解体の是非を問う住民投票条例の制定を求められた。市には苦い経験だ。

 来春、4選が懸かる市長選に出馬の意向を固めている田上富久市長は、選挙戦になった場合、文化団体からの得票を減らす恐れがある。「団体側の意向を気にしているのではないか」。一部の関係者にはこう映る。

        ◇

 県と市の思惑はともかく、協議が長引けば迷惑するのは地元だ。県庁職員の利用がほぼゼロになった商店街では、飲食店が昼間の営業をやめるなど疲弊が進む。約20店が加盟する江戸町商店街振興会の三瀬清一朗会長(83)は「ゴールが見えれば頑張りようもあるのだが…」と肩を落とす。

 文化団体も3年前に公会堂が廃止されたことで公演場所の確保に苦労しており「とにかく早く造ってくれれば、どこでも構わない」と焦る。現在の市庁舎は老朽化で2022年度には移転するため、団体からは「その跡地の方が確実ではないか」との声も上がる。

 県は11月に本館と第1別館の解体を始め、第3別館を除いて来年秋には全体を更地にする計画。その後、埋蔵物の調査に1年をかけ、20年度に着工する計画だが、遺構が見つかればその見通しも危うくなる。

   ◇    ◇

長崎開港以来の中心地 岬の教会、奉行所… 江戸町一帯

 長崎市江戸町一帯は開港以来、町の中心だった。戦国時代の1571年、ポルトガル船の入港を機に、入り江に町が形成され、その突端に小さな聖堂「岬の教会」が建てられた。旧県庁舎がある場所だ。イエズス会本部や神学校も置かれたが、江戸幕府のキリスト教禁教令を受けて1614年、教会は壊された。33年、跡地に長崎奉行所西役所が建つ。この地は鎖国期の貿易拠点・出島に面し、いつの時代も外国文化に開かれていた。

 時代は明治。1874年に県庁舎が建ち、その後、同じ場所で3度建て直された。県によると、駐車場の一部は過去に試掘調査が行われ、江戸時代の石積みや明治期の県会議事院の基礎部分が見つかったが、庁舎の地下はかく乱された可能性が高く、遺構は見つかりそうにないという。

 長崎大の木村直樹教授(日本近世史)は「あの場所が港湾都市の中心に選ばれた理由を解明するため、発掘調査を慎重に進めてほしい」と指摘する。岬の教会の痕跡が見つかれば、江戸時代初期のサント・ドミンゴ教会(長崎市勝山町)に匹敵する発見、という。

   ×    ×

【ワードBOX】県庁跡地

 敷地面積は本館、第1~3別館、立体駐車場を含む約1万3千平方メートル。県はこれに長崎市が所有する江戸町公園(約1800平方メートル)を含めたエリアの活用を目指している。このうち本館などがあった「丘の上」は、全体の64%の約9500平方メートル。戦前に建てられた第3別館は被爆遺構として保存を求める声もあり、当面は現状のまま維持される。

=2018/10/07付 西日本新聞朝刊=

西日本新聞のイチオシ [PR]

西日本新聞のイチオシ [PR]