「水俣は見捨てられたんですね」 天皇陛下、患者に心寄せ続け

不知火海を望む水俣湾埋め立て地に立つ御製碑(歌碑)。水俣市立水俣病資料館の島田竜守前館長は「天皇陛下は『現地で感じられたことをありのままに表現された』と聞いた」
不知火海を望む水俣湾埋め立て地に立つ御製碑(歌碑)。水俣市立水俣病資料館の島田竜守前館長は「天皇陛下は『現地で感じられたことをありのままに表現された』と聞いた」
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 不知火海の向こうに天草の島々が見える。熊本県水俣市の水俣湾埋め立て地。水俣病を引き起こしたメチル水銀が今も、コンクリートや土砂で封じ固めた地下に眠る。

 2013年10月27日、天皇、皇后両陛下は初めてこの地に立たれた。

 「語り部の方々とお会いしたい」。陛下の意向が県を通じて市立水俣病資料館の島田竜守前館長(53)に伝わったのは訪問の約2カ月前だった。宮内庁とやりとりする中、陛下の水俣に対する思いを伝え聞いた。

 「機会があればぜひ、水俣に行きたいと思っていた」「胎児性患者たちと皇太子の年齢が近く、水俣病は身近な問題と感じる部分があった」-。

 島田さんは緊張の面持ちでその日を迎えた。陛下の資料館滞在は51分。1956年の水俣病公式確認から68年の原因確定までの経緯を説明している時だった。

 「水俣という場所は、見捨てられたんですね」

 陛下の問い掛けに、島田さんは言葉を詰まらせた。背後には国や県の関係者がずらりと控えてもいた。答えに窮した島田さんに、陛下は繰り返した。

 「水俣は、見捨てられたんですね」

 水俣病問題の核心を突く陛下の言葉だった。59年、熊本大医学部の研究班が水俣病の原因をチッソの工場排水による有機水銀と突き止め、チッソもネコを使った実験で把握していた。それでも、原因確定まで9年が費やされた。

 「はい、そうです」。ためらいつつ、島田さんはそう答えた。「陛下はよほど事前に勉強されたのだろう」と身を硬くした。

 水俣には陛下の父、昭和天皇も戦前と戦後の2回、訪れている。49年6月1日、九州巡幸中に日本窒素肥料(現チッソ)の水俣工場を視察した際、昭和天皇は「日本再建、生産増強のためしっかりお願いします」と激励の言葉を掛けたと、チッソ社史にある。

 「誇りに思った」。38年に入社し、南太平洋の激戦地から帰還して建築係にいた西川登さん(96)=水俣市=は振り返る。「天皇の来訪で会社も従業員も一気に増産意欲が高まった」

 5カ月後、水俣工場は塩化ビニールの生産を再開。柔らかくするために用いられたアセトアルデヒドの製造過程で、メチル水銀が生じた。戦後復興と高度経済成長を下支えした企業活動の裏で、犠牲になったものはあまりに大きかった。

 「水俣は見捨てられた」と、2回も繰り返した陛下。どんな思いが込められていたのだろう。

   ◇    ◇

 ■「真実に生きる社会を」

 実は、天皇ご一家と水俣の地には少なからぬ縁がある。

 皇太子さまと雅子さまのご成婚が内定した1993年1月19日。記者会見した宮内庁の藤森昭一長官(当時)は、お妃(きさき)選定の経緯を説明する中で、こう述べた。「(雅子さまの)祖父の江頭豊氏が水俣病訴訟継続中のチッソの社長だったこともあり、交際は中断した。(中略)江頭氏は水俣病の発生には関係なく、刑事責任はないことが明らかになった」

 雅子さまの祖父、江頭氏はチッソの主取引行だった日本興業銀行(現みずほ銀行)からチッソ専務、副社長を経て64年12月に社長となり、71年7月から約2年、会長を務めた。この間、70年11月に大阪で開いた株主総会では、「一株株主」となって会場に入った患者、家族から壇上で取り囲まれている。

 こうした関係から、皇太子さまと雅子さまのご成婚には政府内に慎重論があった。「皇居にむしろ旗が立つ」と言われた。警察庁長官時代に水俣病闘争に直面した当時の法相、後藤田正晴氏も反対したとされる。

 水俣の反応はどうだったか。作家、故石牟礼道子さんは本紙の取材に「長い受難を引き受けた患者さんたちは、高くて深い見地から人間を理解し、慈しみの気持ちを持っておられるから、心から祝福されていると思います」と答えている。

   ◇    ◇

 かねて水俣病に苦しむ人々に心を寄せられていたとされる天皇、皇后両陛下。水俣訪問はしかし、長く実現しなかった。95年に未認定患者の政治解決策がまとまり、一部訴訟を残し「和解」が成立した後も、「水俣が訪問先に挙がった記憶はない」と元政府高官は語る。

 元宮内庁職員で、皇室ジャーナリストの山下晋司さん(61)は「加害者と被害者が共存する公害問題を、公平性を重視する皇室は扱いにくい」と説明する。

 患者闘争のリーダー、故川本輝夫さんは陛下の訪問を望んでいた。長男愛一郎さん(60)は「父は元々軍国少年。水俣病事件に巻き込まれるまで祝日に日の丸を掲げていた」と明かす。

 同志の志垣襄介さん(73)=水俣市=の手元に、川本さんが陛下宛てに手書きした「請願書」の写しが残る。かつて、足尾鉱毒事件の被害を明治天皇に直訴しようとした田中正造をほうふつさせる企てだった。

 「一、政府に対し人道上、人権上の問題として御提言をしていただくこと。二、水俣病発生地域の実情視察にお出でいただくこと」

 仲間内にも反対意見が強く、実現しなかったが、愛一郎さんは2013年、水俣を訪問された両陛下と言葉を交わすことになる。

 「お父さまが亡くなられて何年になりますか」。思いがけない皇后さまの問い掛けだった。水俣市立水俣病資料館の語り部として面会した愛一郎さんは、面識もない父のことを皇后さまが知っていたことに驚き、救われる思いがした。

 語り部の会の緒方正実会長(60)が「正直に生きる」と題して講話した後、天皇陛下は語った。「真実に生きることができる社会をみんなでつくっていきたいと改めて思いました」「今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています」

 陛下が公式の場で、水俣病に関して語ったことはほとんどない。異例の発言は1分間に及んだ。

   ◇    ◇

 水俣病は水銀に汚染された魚介類を介し、人に発症した。魚類学者でもある陛下は初訪問した後、歌を詠み、13年12月に熊本県に伝えた。「二度とこの悲劇は繰り返しません」と書かれた慰霊碑近くの歌碑に、刻まれている。

 《あまたなる人の患ひのもととなりし海にむかひて魚放ちけり》

=2018/04/02付 西日本新聞朝刊=

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