不戦の句、詠み続ける 俳誌「青嶺」主宰の岸原さん 創作の原点に「引き揚げ」体験

「俳句は社会や時代への目を忘れてはいけない」と句を生み出し続ける岸原清行さん=福岡県岡垣町
「俳句は社会や時代への目を忘れてはいけない」と句を生み出し続ける岸原清行さん=福岡県岡垣町
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 〈リュック背に 灼(や)くる大地を 引揚げし〉-俳句雑誌「青嶺(あおね)」を主宰する岸原清行さん(83)=福岡県岡垣町=の創作の原点には、太平洋戦争での中国からの引き揚げ体験がある。帰国後すぐに両親と死別し、妹3人を養う身に。働きながら作句を重ね、折々に平和への願いを詠んできた。昭和を継いだ平成最後の終戦の日も間近。「平和だからこそ文化を楽しめる。戦争を繰り返さないため、俳句が果たせる役割がある」。戦争が遠い記憶になりつつある今こそ、残したい言葉がある。

 岸原さんは北九州市八幡東区生まれ。技術者の父が軍用炭を産出する中国・山東省の炭鉱で所長を務めることになり、一家は現地へ渡った。10歳だった1945年8月15日、日本が敗戦。街の日本人は炎天下にリュックを背負い、港を目指した。貨物列車では中国人と思われる集団に銃を突き付けられ、周りの大人が時計や金を奪われるのを見た。やっと乗り込んだ輸送船の中で病死した人もいた。

 博多に上陸したのは46年6月。母の故郷の鹿児島県に住んだが、数年後に父母は結核で他界した。中学を卒業し農協で働いた後、亡父の友人の誘いもあって23歳で三菱鉱業(現三菱マテリアル)に転職。妹3人を連れて北九州に移住した。

 セメント工場で働きながら「なぜ戦争が始まったのか」「防げなかったのか」と考えた。哲学書や宗教書を読みあさる中、同僚の誘いで社内の俳句サークルに参加。「体験や思いを表現できる。打ち込むに値するものだ」と夢中になった。

 戦後俳壇で活躍した野見山朱鳥(あすか)(1917~70)や、兒玉南草(こだまなんそう)(1922~2000)に師事。兒玉主宰の「地平」を引き継いだのが「青嶺」で、現在は北九州を中心に約400人の同人、会員を抱える。

 昨夏は総合俳句誌「俳壇」に依頼され、戦争体験を持つ俳人金子兜太(とうた)さん(2月死去)らとともに10句を寄せた。

 〈さくら貝 あまたの兵の 帰らざる〉

 砂浜に打ち寄せた無数の桃色の貝殻。海の向こうで戦死した兵士が、姿を変えて帰ったように思えた。

 〈十二月八日 うららに晴れて 忘らるる〉

 太平洋戦争の開戦日を知らない若者が増えたことを憂えた。

 俳句仲間には「ことさらに社会性を織り込まなくても良い」という人もいる。しかし、岸原さんは「花鳥風月をめでるだけでなく、時代への目も忘れてはいけない」という信念を抱く。

 長崎に落とされた原爆の当初の目標とされた北九州市。同市小倉北区の公園にある原爆犠牲者慰霊碑前で今春、こんな句を詠んだ。

 〈冴返(さえかえ)る 非核を願ふ 千羽鶴〉

 「冴返る」とは、寒暖が入り交じり変わりやすい春の気候をいう。「鶴は静かに平和を願っている。世界は今も諍(いさか)いが絶えない。その中で、この国はどこへ向かうのでしょうか」

=2018/08/14付 西日本新聞朝刊=

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