「何とむごいことよ」特攻の最期、57枚の水彩画に 元教諭、6年かけ証言集め描く

展示されている57枚の水彩画と文を前に「絵で表せる悲惨さは生ぬるいぐらい。さらに想像力を働かせてほしい」と語る有田義孝さん
展示されている57枚の水彩画と文を前に「絵で表せる悲惨さは生ぬるいぐらい。さらに想像力を働かせてほしい」と語る有田義孝さん
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女性が藤野軍曹のほほをさすりながら号泣する場面
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 沖縄戦に向かう途中、徳之島(鹿児島県)沖で戦死した特攻隊員の胸に去来したものは何だったのか-。徳之島で育った同県姶良市の有田義孝さん(76)はそんな思いから、文献を読み、証言を集め、彼の最期を57枚の水彩画にまとめた。大病を患いながらも、6年間の調査の末に生まれた絵には文章も添えた。「戦争を観念や数字で捉えるのではなく、一人の人間の生傷に触れるような痛みを感じてほしい」との思いを込めている。

 特攻隊員は福岡県出身の藤野道人(よりと)軍曹=当時(21)。1945年4月22日に鹿児島の特攻基地・知覧を飛び立ち、徳之島町母間(ぼま)沖に墜落、死亡したとされる。

 墜落は当時、地元では知られた出来事だった。終戦直後の幼少時から高校まで島で暮らした有田さんも、心の中でずっと気になっていたという。

 小学校教諭を勤め上げた有田さんは8年前に心筋梗塞などで倒れた際、「人生で何か形に残したい」と感じた。翌年、知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)を訪ね、藤野軍曹の遺族による手記を目にした。若かりし頃の記憶がよみがえり、徳之島沖で空中戦があり墜落したとも知り、思い立った。趣味で腕を磨いてきた水彩画で彼の最期を描けないかと。

 墜落状況を郷里・徳之島の知人に報告すると、「その日に戦闘はなかった」と知らされた。遺族の手記とのずれに葛藤を抱えながらも、闘病の合間に徳之島に赴いて話を聞き、当時を知る住民には電話をして調べ続けた。「割れた陶器の破片を集めるよう」に証言を紡ぎあわせ、水彩画を描き上げた。そして8月、展覧会を開くに至り、「15年早く生まれていたら、自分が藤野軍曹だったのでは」との思いが深まっていった。

 水彩画には、島の豊かな自然と対照的に、2人の少年が墜落に気付いたり、海中から遺体を収容したりする状況が克明に描かれている。「何とむごいことよ。まだこんなに若いのに…」。女性が遺体のほほをさすりながら号泣し、島民の涙を誘う場面もある。藤野軍曹の肖像画や遺骨は鉛筆だけで描き、「追悼」の思いもしのばせた。

 有田さん自身、戦時中に船乗りで軍属だった父と、2歳下の妹を失った経験を持つ。徳之島に移り住む前の神戸で体験した空襲の光景やサイレンの音がいまも忘れられないという。

 「藤野機は無念の不時着だったのではないかとも思う。検証は尽くせていないが、若者の命を奪った戦争だけは二度としてはいけない」。水彩画は姶良公民館で31日まで披露している。

=2018/08/30付 西日本新聞朝刊=

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