【沈黙の島から カネミ油症発覚50年】(2)「客に毒を」深まる悔悟

次男の真二さんから自宅でマッサージを受ける矢口フジエさん。自宅でもつえを手放せないという
次男の真二さんから自宅でマッサージを受ける矢口フジエさん。自宅でもつえを手放せないという
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 人口減少に歯止めがかからない長崎・五島列島の奈留島にも、50年前の昭和40年代は開発の波が押し寄せた。港湾整備などで多くの作業員が来島。そんな1967年の暮れに「ふじや食堂」はオープンした。

 店を1人で切り盛りした矢口フジエさん(87)の口からは、今なお自責の念があふれ出る。

 「毒まで食べさせてしまった。私が商売をしとかんやったら…」

 定期便が着く港から車で数分の島中心部。カウンター10席のこぢんまりした店は、鶏がらでだしを取った野菜たっぷりのチャンポンで評判になった。から揚げや天ぷらも人気で、昼も夜も大勢の客でにぎわった。

 「米ぬか油が安かよ」。68年の春ごろ、近所の商店で薦められた。一斗缶の量り売りで、一升瓶を手に買い求めた。それは、カネミ倉庫(北九州市)が製造した油だった。

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 直後、夫と4人の小中学生の子どもに異変が起きた。ペン先で突いたような吹き出物がたくさん出た。

 「奇病」が明るみに出て、油の購入者を捜す役場職員が訪ねてくる68年秋まで、店では米ぬか油を7~8カ月は使っていた。矢口さんは、店の常連で港湾作業にあたっていた20代の青年を忘れられない。連日、店に立ち寄り、「おいしい、おいしい」とから揚げを頬張った。「ごちそうさまです」。帰り際の礼儀正しい明るい声が脳裏に残る。

 しかし、青年はいつしか姿を見せなくなった。約1年後、亡くなったと人づてに聞いた。

 「自分たちはしょうがなか。でも、私のせいで青年が死んでしまったのかも。私はどれだけの人ば不幸にしてしまったのか」

 自分の料理を、油症の原因となる化学物質が入った油で作っていたと知るよしもなかった矢口さんは、69年の夏の終わりに肝臓を壊した。高熱が続き約40日入院。退院後も体調は悪く、ふじや食堂は閉じた。家族6人全員が70年までに認定を受けた油症患者。今でも体の痛みや倦怠(けんたい)感が抜けない暮らしが続いている。

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 カネミ倉庫製の米ぬか油は、68年2月から半年間で約300缶が五島の各地に出荷され、奈留島ではスーパーや米屋など12店で売られたとされる。

 該当する販売店の親戚筋という男性は「狭い島だから人間関係は濃密。店も、たどれば親戚や知人になっけん、油症の話題は自然とせんようになった」と話す。販売した店の中には、自身に症状がありながらも、被害を拡大させた心苦しさから、油症検診をいまだ受けていない人もいる。

 矢口さんは一升瓶を目にすると、店の天ぷら鍋を思い出す。悔悟の気持ちはいつまでも消えない。

 「毒入りの油が島に入ってきたことで、これほど苦しみが続くとは。悲しくて悲しくて、一人で抱え込んでしまってね…」

=2018/10/05付 西日本新聞朝刊=

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