三川鉱爆発55年…患者の後遺症今も 介護に半生ささげた妹「後悔はない」

入院中の鳥谷進さんを見舞う妹の君子さん。右は弟の光晴さん=10月21日、福岡県大牟田市
入院中の鳥谷進さんを見舞う妹の君子さん。右は弟の光晴さん=10月21日、福岡県大牟田市
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26歳で事故に遭う前の鳥谷進さん
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 戦後最悪の労災事故、三井三池炭鉱三川鉱の炭じん爆発事故から9日で55年を迎えた。一酸化炭素(CO)中毒患者の鳥谷進(すすむ)さん(81)は今も福岡県大牟田市内に入院し、寝たきりとなり、後遺症と闘う。妹の君子さん(69)もまた、進さんの介助や世話に半生をささげてきた。「事故の悔しさや怒りはあっても、家族一緒に過ごせて、後悔はない」。君子さんは、事故前の優しかった兄の面影を大切に心にしまい、ずっと寄り添っている。

 「進(すん)ちゃん。来たよー」。10月下旬、大牟田吉野病院の病室で、君子さんが幼い頃から使う進さんの呼び名を耳元で声掛けすると、進さんは口を何度も開け閉めして、うれしそうな反応を見せた。進さんは7年半前に喉の手術をしてからは声が出せなくなった。

 1963年11月9日。「ドーン」という音を聞いた中学生の君子さんは母小良(こよし)さんと、進さんが働く三川鉱の坑口に走った。ごった返す現場では安否が分からず帰宅。翌日未明、連絡を受けて病院に駆け付けたが、急性一酸化炭素中毒で重症だった進さんはすぐに同県久留米市の久留米大病院に運ばれ、面会謝絶が続いた。大牟田の病院に転院できたのはおよそ15年後。ただ脳に障害を負ったCO中毒患者特有の後遺症に本人も家族も苦闘した。

 進さんは外泊の許可が出て帰宅すると、普通に将棋を指す時もあれば、突然外出したり、無用の物を拾ってきたりした。激しい頭痛を抑えようと、自分の頭を拳で何度も強くたたくこともたびたびあった。片時も目を放せず、180センチ近い身長の進さんを、小柄な母と君子さんで肩を抱えて連れ戻したり、頭をたたくのを止めたりするのは、心身にこたえた。

 20代半ばだった頃の君子さんには、結婚を真剣に考えた人がいた。ただ高齢化する母と兄の将来を考え「家族がばらばらになってはいけない」と諦めた。新幹線の食堂車の乗務員として働き始め、大牟田から福岡市内へ通勤する忙しさに身を置き、さみしさを紛らわした。約20年前からは小良さんの認知症が重くなり、介護する君子さんの負担はさらに増した。

 7年前に100歳で亡くなった小良さんの葬儀には、進さんも車いすで参列した。涙は見せなかったが「遺影をじっと見つめていた姿に、母の死を理解したと思った」。

 君子さんには進さんとの大切な思い出がある。5歳の頃、街で迷子になり、12歳差で既に炭鉱マンだった進さんが自転車で迎えに来てくれた。兄の背中は広く、帰り道で大きなあめ玉を買ってくれた。

 「兄をずっと見守ってきたことを、今は幸せな日々だったとも思う。これが、兄と私のかけがえのない人生なのです」。君子さんは55年の歳月をそう振り返る。

三井三池炭鉱三川鉱炭じん爆発事故
 1963年11月9日、福岡県大牟田市の三池鉱業所三川鉱第1斜坑内で、トロッコ8両が坑底に暴走して脱線。火花が炭じんに引火して大爆発した。当時、約1400人が坑内におり、458人が死亡、839人が一酸化炭素(CO)中毒になった。CO中毒患者らが提訴した「三池CO訴訟」では、会社の過失を認めて損害賠償を命じる判決が、98年に最高裁で確定。今もCO中毒の後遺症で少なくとも15人が同市と熊本県荒尾市などの病院に入院、35人が通院している。

=2018/11/09付 西日本新聞朝刊=

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