松橋事件 再審無罪へ(上) 「メモの謎」扉開く

研究室で松橋事件を振り返る大野曜吉教授。「大野鑑定」は完成までに14年を要した=昨年11月、東京の日本医科大
研究室で松橋事件を振り返る大野曜吉教授。「大野鑑定」は完成までに14年を要した=昨年11月、東京の日本医科大
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 2005年9月14日夜、熊本大法医学研究室は静かな興奮に包まれていた。卓上に置かれた粘土製の等身大胸像には、何本もの小刀が刺さっている。首に6本目が刺し込まれると、弁護士は手元のメモに目を落とし、うなずいた。

 間もなく、東京で待つ大野曜吉(65)=日本医科大教授=に連絡が入った。「やはり逆でした」

 1985年、熊本県松橋(まつばせ)町(現宇城市)で男性が刺殺された松橋事件。再審の扉を開いた新証拠の一つが、法医学者が残したメモの謎を解き明かし、傷と凶器の不一致を証明した「大野鑑定」だった。熊本地裁、福岡高裁の再審決定はこの鑑定を採用し「傷は凶器の形状と矛盾する」と認定。最高裁も追認した。

 刑事裁判では、供述調書や凶器、遺体を詳細に検証した死亡鑑定書などの証拠を調べる。だが、松橋事件は、法医学者が鑑定書を完成させる前に自殺。傷口を細かく記録した9枚のメモを残したが、意味を読み解くことができなかった。

 「メモの謎が解けてからが、本当の始まりだった」

 弁護団から93年に依頼され、手詰まりだった大野の鑑定は、熊大研究室での夜を境に動きだした。

鑑定14年 矛盾あらわ

 松橋事件の裁判では、遺体の傷と凶器とされる小刀の形状が一致するのかどうかが、争点の一つとなった。弁護側の無罪主張を支える死亡鑑定書はなく、証拠採用された警察の捜査報告書に記載されていたのは傷の一部だけだった。

 弁護側は、傷と小刀の形状には矛盾があるとして無罪を主張。検察側は、一致しないのは皮膚の伸縮で傷の形状や深さが変わる「押し下げ現象」で説明できるとし、最高裁もこれを認めて懲役13年が確定した。

 「法医学者が残したメモの意味を解明しないと、無罪を証明できない」。大野は再審請求審に向け、15カ所あった傷全てを洗い直そうとした。奇妙なことに、メモが示す通りに実験すると、遺体の傷とは一致しなかった。

 事情を知るとみられた法医学者の“弟子”に当たる研究者には協力を拒まれた。説得を続けていた05年、ある事件が研究者の口を開かせた。東京高裁で02年に逆転無罪が確定した痴漢冤罪(えんざい)事件のことだった。研究者は「報道で見た。ひどい話だと思った」と話した。

   ◇   ◇

 「メモの記載は左右が逆。鑑定書では傷の形状を被害者目線で記録するが、先生はいつもメモ段階では犯人目線で書いていた」。研究者は熊本大法医学研究室で弁護団にこう説明した。

 メモにある「右側」や「左方向」の左右を置き換えながら傷の向きや深さを検証した。小刀を胸像に刺すと遺体の傷が再現されていく。15カ所全ての傷を確認すると、致命傷を含む6カ所が小刀の形状と大きく異なっていた。

 「あの小刀ではつかない傷がある」。大野はさらに2年間、実験を重ねた。検察側が主張した「押し下げ現象」も生きた豚を使って検証し、首元ではこの現象は生じないとする鑑定を書き上げた。

 再審請求審で、大野鑑定を採用した裁判所は「このような不一致は微妙なものと言うことはできない」と認定し、小刀で刺したとする自白の信用性も否定。無罪を言い渡すべき新証拠が見つかったと判断した。

 昨年10月、大野は最高裁の再審開始決定を東京の研究室で聞いた。「14年もかかったが、再審無罪につながる鑑定になった。お弟子さんのことも忘れられない」。冤罪を案じ、メモ解読に協力した研究者は09年、再審の行方を知らぬまま鬼籍に入った。地道な一歩一歩に支えられた無罪判決を聞くのは、もうすぐだ。

=敬称略

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 松橋事件のやり直しの裁判が来月8日に始まる。検察側は殺人罪での立証を断念し、9年間服役した宮田浩喜さん(85)の無罪は確実だ。発生から34年。松橋事件をそれぞれの思いで見守る人たちがいる。

松橋事件】1985年1月8日、熊本県松橋町(現宇城市)の民家で男性=当時(59)=が血を流して死亡しているのが見つかった。男性の将棋仲間だった宮田浩喜さんが「刃物で刺した」と殺害を認めたため、県警が同月20日に逮捕。宮田さんは公判途中から「自供の大部分は偽りだった」と否認に転じ無罪を主張したが、地裁は自白に任意性、信用性があると認め懲役13年の判決を言い渡した。90年に最高裁で確定して服役、99年に仮出所した。2012年3月、成年後見人の弁護士が再審請求。18年10月に最高裁が再審開始を決定した。

連載(中)「誰が父を殺したのか」

=2019/01/21付 西日本新聞朝刊=

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