硫黄島で父思い詠む 戦い終結から74年 初訪問した遠賀の植村さん 「戦禍、短歌で伝えたい」

70年以上前に硫黄島から届いた父からのはがき。「日増しに大きくなって居る様が目に見える様だ」など子どもたちに関する言葉が並んでいる
70年以上前に硫黄島から届いた父からのはがき。「日増しに大きくなって居る様が目に見える様だ」など子どもたちに関する言葉が並んでいる
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硫黄島を訪問し、父に思いを巡らせる時間が増えたという植村隆雄さん=福岡県遠賀町
硫黄島を訪問し、父に思いを巡らせる時間が増えたという植村隆雄さん=福岡県遠賀町
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 太平洋戦争の激戦地となった「硫黄島の戦い」は26日で終結から74年がたつ。父を失った北九州歌人協会会長の植村隆雄さん(79)=福岡県遠賀町=は今年、島を初めて訪れた。20度を超す気温の中、旧日本軍の守備隊が持久戦を続けた地下陣地を歩いた。水が極端に少なく、過酷な戦闘を強いられた父たち。所属部隊と米軍の戦闘地域だった場所に立ち、短歌をささげた。

 父の治郎さん=39歳で戦死=は、植村さんが4歳の時に召集された。触れ合った記憶はなく、終戦後に役場で「遺骨」として受け取った白木の箱を首に下げられ、「なぜか晴れがましい気持ちになったことだけを覚えている」。白木の箱には小さな石ころが入っていたという。

 母からは折に触れて父の話を聞かされた。「学校の先生になってほしい」と言っていたこと、戦地から届いたはがきがあること…。ただ、貧しさから生きることに精いっぱいで、思いを寄せる余裕はなかった。弟妹の学費を捻出するため、大学進学を諦めて、高校卒業後に就職した。

 18歳の時、戦争に翻弄(ほんろう)された人生を思うと、社会への怒りが湧いてきたという。気持ちに整理をつけるために始めた短歌にのめり込み、これまでに歌集も出した。反戦の歌も多く作ったが、父のことを直接詠んだものは1首しかない。

 《硫黄島の 石ころ一つが遺骨にて たったひとつが 父の思い出》

 1月下旬、厚生労働省の慰霊巡拝事業に参加し、初めて島を訪問した。地下壕(ごう)の入り口には大小の弾痕が幾つも刻まれ、米軍のさびた戦車が転がっていた。壕は奥に行けば行くほど硫黄臭が強まり、地熱で汗もにじんだ。米軍との戦闘地域に立つ碑の前では、他の遺族らの許可を得て詩吟をささげた。硫黄島の戦死者を悼む漢詩に、父を詠んだ短歌も挟んだという。

 福岡に戻り、70年以上前の父の便りを読み直した。変色したはがきには過酷な環境への泣き言などは一言もなく、家族を気遣う言葉が幾つも並んでいた。

 父や硫黄島についての短歌は40首を超えた。

 《慎(つつ)ましき 幸せ得たるを報告し 果てたる父の冥福祈る》

 《亡き父に めぐり逢(あ)いたる想(おも)いして 吉野隊碑に そっと掌(て)を添う》

 《戦地からの 父の便りの末尾には 『子供らを頼む』 どの便りにも》… 植村さんは「戦争のむごさを知る者として短歌を通して次世代に伝えていきたい」と話した。

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【ワードBOX】硫黄島の戦い

 太平洋戦争末期の1945年2月19日から同年3月26日まで、小笠原諸島南端の硫黄島で旧日本軍の守備隊と米軍との間で行われた。米軍は日本本土を空襲する戦闘機の修理基地として、日本は本土防衛の拠点として島を必要とした。守備隊は持久戦のため44年から地下陣地建設を開始。島には川がなく水が少ない上、地下は地熱で気温が高く、過酷な生活を強いられた。

 厚生労働省によると、日本軍だけで約2万1900人が戦死。これまでに遺骨約1万柱を収容したが、半数は地下陣地などに眠ったままに。米軍の砲撃や、占領後に死臭を消すためにまかれたという植物に覆われて地形が変わり、地下への入り口が分からなくなっているためという。

=2019/03/26付 西日本新聞朝刊=

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