鉄路は続く 国東鉄道 惜しむ声今も 豪雨禍で廃線から半世紀 [大分県]

国東線の軌道跡を活用した自転車道。滑らかなカーブが線路の名残を残している=国東市国東町
国東線の軌道跡を活用した自転車道。滑らかなカーブが線路の名残を残している=国東市国東町
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1961年の豪雨で橋脚が流失した国東線の軌道(国東市歴史体験学習館)
1961年の豪雨で橋脚が流失した国東線の軌道(国東市歴史体験学習館)
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花見、行商…暮らし支え

 大分市内から大分空港(国東市安岐町)へ、直線となめらかなカーブが続く国道213号。ここにかつて線路があったことを知る住民は、その廃線を今でも惜しむ。大分交通の国東線(旧国東鉄道)は大正-昭和時代、半島沿岸部に住む人々の暮らしを支えたが、1966(昭和41)年、豪雨により橋脚が流失して廃線に追い込まれた。

 「朝は、病院や学校へ行く人。最終便は酔っぱらい。それぞれの降りる駅を聞いちょって、声を掛けたりもしたな」。国東線で車掌を務めた渡辺広幸さん(85)=国東市国東町=が振り返る。「客が多すぎて、車掌は乗降口を両手でつかんで、車外にぶら下がったこともあったわ」

 同線は地元実業家らが出資した「国東鉄道株式会社」が線路を敷設し、22(大正11)年に開通した。当初は線路幅の狭い軽便鉄道の計画だったが、国鉄と同じ1067ミリ幅の線路を杵築駅から分岐させ、国東との間を結んだ。国鉄の貨車が乗り入れでき、貨車は畳表の材料七島イやミカンで一杯になった。一帯で伐採した広葉樹は福岡県・筑豊地方の炭鉱へ運ばれ、坑内の落盤防止などに活用。日本の戦後復興、高度成長を支えた。

 夏の海水浴期間中は臨時に停留所を設置し、白砂青松で知られた行者原海水浴場(国東市武蔵町)へ家族連れを運んだ。「花見列車」「潮干狩り列車」もあった。漁港からは、缶に鮮魚を詰め込んだ行商の“カンカン部隊”の女性が乗り込んだ。渡辺さんは「カンカンのおばさんから、時々にぎり飯をもろうたなぁ」と懐かしげに語る。

 45年、戦時統制により国東鉄道を含む7社が合併し、大分交通となった。61年10月26日。国東半島を集中豪雨が襲った。空港に近い、安岐川に架かる第2安岐川橋が流失した。武蔵-安岐間がバスによる代行運行となり路線は分断。国東-安岐は3年後に廃止された。自動車社会の到来も逆風となり、安岐-杵築も66年に廃止され、半島沿岸部から鉄路は消えた。

 廃線の年。国は手狭になっていた大分空港を大分市から安岐町へ移転させることを決めた。「せめて安岐までの路線が残っておれば…」。空港と別府、大分を結ぶエアポートライナーとして活躍していたであろう姿を思い、渡辺さんは残念がる。

随時掲載

=2018/01/03付 西日本新聞(大分・日田玖珠)=

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