落城から400年…隠れた石の“名城”の今 遺構に残る敵軍への恐怖心 [大分県]

長岩城を特徴づける「登り石垣」。登りが続いて、記者もへとへとになった
長岩城を特徴づける「登り石垣」。登りが続いて、記者もへとへとになった
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長岩城の象徴、石積櫓。敵の侵入に目を光らせる3カ所の“銃眼”を備える
長岩城の象徴、石積櫓。敵の侵入に目を光らせる3カ所の“銃眼”を備える
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高低差約10メートル。アルミ製はしごは少々心許ない
高低差約10メートル。アルミ製はしごは少々心許ない
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 大分県と福岡県の県境近くの山あいに、県指定史跡「長岩城跡」(中津市耶馬渓町)はある。地元で話題に上がることはほとんどないが、「石積櫓(やぐら)」や「登り石垣」など特異な遺構を数多く備え、城好きの間では“名城”として広く知られる。安山岩を積み重ねた遺構は約20カ所、石塁の総延長は約700メートル。隠れた「石の山城」を訪れると、当時の外敵黒田氏に対する人々の強い恐怖心が伝わってくるようだった。

 長岩城は1198年、在地領主の野仲重房によって扇山(530メートル)頂上に本丸が築かれ、戦国大名大友宗麟の軍勢をはね返すなど堅城として知られた。豊臣秀吉によって新たな領主に任命された戦国大名黒田孝高の嫡男長政によって1588年に落城。前年に宇都宮鎮房(福岡県築上町)を力攻めし完敗した長政は長岩城攻めを前に、野仲氏の家臣団を入念な調略で分断。内応者も出たことで落ちたと伝わる。

 そんな城跡は400年以上たった今、どうなっているのか。現地に行ったのは1月11日。木下公法さん(64)ら「長岩城址保存会」の3人に付き添ってもらった。扇山の東にある「板迫口」から向かいはじめて、すぐに堅牢だった理由が分かった。

 とにかく斜面がきつい。登山靴を用意するように事前に念押しされていたが、ここまでとは。傾斜は30度近くあろうか。滑落しないよう保存会の3人に前後を固められつつ、ツタや木を頼りに登っていく。前日の雨で地面はぬかるみ、何度も転びそうになる。

 息が上がる中、20分ほど登ると視界が開けた。雁股(かりまた)山(807メートル)に経読岳(992メートル)、檜原山(735メートル)などを一望できる絶景にしばし休憩。そそり立つ山肌からは外敵の侵入を頑強に拒んできたことがうかがえる。

 そこからアップダウンの激しい尾根を進むと、長岩城の象徴、石積櫓(高さ約1・5メートル、周囲約5メートル)が姿を現した。安山岩を何重にも積み、3カ所の“銃眼”を備える特異な石の櫓。保存会の末広章一会長(59)は「下から攻めてくる敵兵を火縄銃で撃つための銃眼と伝わるが、当時の射程を考えるとどうだろう」といぶかる。数十メートル向こうの尾根にも「弓形砲座」とされる石積みの台座がある。切り立った崖からは下にいる敵の動きは手に取るように分かる。どちらも石積みに姿を隠し敵の動きを探る監視所だったと考える方が自然かもしれない。

 少し離れた「陣屋跡」へ。途中、10メートルほどの崖をはしごで下りる。「ぐらつくが、大丈夫だから」と木下さん。はしごを持つ手に力が入る。陣屋跡は、野仲氏が政務を行った建物や家臣の家などがあったとされ、今もいくつもの石塁が斜面をはうように伸びていた。

 本丸を目指して少し歩くと、頂上へ向かって伸びる「登り石垣」が現れた。並行し、深さ数メートルの堀が幾重にも掘られている。同会の板迫高徳顧問(63)は「ここを力攻めで落とすのは並大抵じゃない」とあらためて感心した様子を見せる。

 本丸跡は20メートル四方ほどの広さだった。1587年に起きた黒田支配への土着領主たちの反乱「豊前国人一揆」で、黒田軍に敗れた兵やその家族たちも、野仲氏とともに長岩城に立てこもったとされる。

 県立歴史博物館(宇佐市)の小柳和宏館長(59)は「土塁だけだった中世の城に、豊前国人一揆前後に突如おびただしい石塁が現れたと思われる。負ければ死という極限状態の中、敗残兵らも動員し短期間で構築したのかも」と推測する。落城とともに歴史から姿を消した長岩城。こけむした石垣遺構の数々から、黒田軍の強さに恐怖していた人々の姿を思い浮かべ、5時間の“旅”を終えた。

=2019/02/15付 西日本新聞朝刊=

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