「長岩城跡」国史跡へ潜在価値十分 県立歴史博物館 小柳和宏館長に聞く 地元と中津市の共同歩調大事 [大分県]

小柳和宏館長
小柳和宏館長
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 県指定史跡「長岩城跡」(中津市耶馬渓町)は石垣遺構の数や大きさで中世の山城としては全国屈指の規模を誇り、地元には国史跡への格上げを目指す声がある。県教育委員会の「長岩城」の基礎調査に参加した県立歴史博物館(宇佐市)の小柳和宏館長(59)に、城の価値や国史跡になるための課題などを聞いた。

 -基礎調査を行った際の長岩城に対する印象は

 県文化課職員だった1999年3月から4月、同僚5人と現地調査を行った。銃眼を持った「石積櫓(やぐら)」や「登り石垣」など全国に例のない構造物があり、当時、専門誌などで「奇城」として取り上げられた。「眉唾ものの城」という意見が職員の間でも多かった。調査の結果、現存する石垣遺構すべてが当時のものかは分からないが、城と「石積櫓」や「登り石垣」などの遺構に一体感があり、少なくとも江戸期以降に造られた「全くの偽物」ではないことは確かだ。

 -長岩城の特徴は

 1198年の築城と伝えられ、歴史の大半は土塁中心の平凡な中世の山城だったと思われる。戦国末期に、多様で大規模な石積みの防御構造物が造られたとみている。全国には石垣や石塁がある中世の山城は700カ所以上確認されているが、これほど大規模なものはほかにない。

 -長岩城が「石の城」に変貌した理由は

 豊臣秀吉に命じられ黒田孝高・長政親子が中津に来たのが転機だろう。黒田親子は反抗する在地領主などを容赦なく攻撃した。地域は緊迫しただろう。城の防御力を高めようと石を多用したのではないか。

 この地域には安山岩を積み重ねて石塁にする技術があった。例えば室町期から戦国期に建てられた日田市の堂山薬師堂にも似たような石塁がある。この技術は野面積みのような高度なものではない。城の多様で大規模な石垣遺構も、人手さえあれば比較的短期間で築造は可能と思われる。

 -この山あいにそんな人口があったとは思えない

 黒田氏への土着領主の反乱「豊前国人一揆」が関係していると思う。国人らがそれぞれ撃破される中で大量の敗残兵やその家族が生まれ、長岩城に落ち延びたのではないか。「負ければ死」という極限状態で、老若男女が必死に石を積んだとみられる。

 -地元には「長岩城を国史跡に」という声がある

 国史跡になる潜在価値は十分あるが、課題はある。まずは石垣遺構群の時代区分。すべてが当時のままではないだろう。端的に言えば、戦国期の石垣遺構はどこかということ。発掘調査も必要だ。埋もれている遺構や遺物を確認し、城の来歴を特定するのも大事だ。

 -時間がかかりそうだ

 だからこそ地元住民の熱意と強い意志が重要だ。市がその思いを受け止めて適切な整備計画を策定するという“車の両輪”があってはじめて達成される。玖珠町にある「角牟礼城」について、国史跡を目指した町と住民一体の活動でさえ、成就には10年以上かかった。国指定で終わりでもない。城を将来的にどう保全し、どう活用するかも地元と市が一緒に考えないといけない。

 小柳 和宏(こやなぎ・かずひろ) 1959年、別府市出身。東洋大文学部史学科卒業後、1983年県庁入り。95年から県内の中世城館152カ所の基礎調査に従事した。2017年4月から現職。

=2019/02/16付 西日本新聞朝刊=

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