秀吉への恨み伝説「末孫話」は増税対抗策 江戸後期、意図的に誕生 [佐賀県]

石塔がまとまって安置され「旗本百人腹切り場所」と伝えられる瑞巌寺跡の丘陵
石塔がまとまって安置され「旗本百人腹切り場所」と伝えられる瑞巌寺跡の丘陵
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瑞巌寺跡にある波多親の遥拝塔。親の墓という言い伝えがある
瑞巌寺跡にある波多親の遥拝塔。親の墓という言い伝えがある
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唐津市相知町の山里に安置される末孫様
唐津市相知町の山里に安置される末孫様
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 秀吉がいかに威勢が強くとも、我念力で家はほろぼす-。玄界灘に勢力を誇った武士団を束ねながら、豊臣秀吉に領地が没収され、滅亡した上松浦党の波多氏。亡き主君の恨みに思いを募らせ、後を追って切腹した家臣の辞世の句が今に伝わる。唐津市とその周辺で語り継がれる「末孫(ばっそん)話」の一つだが、検証していくと、江戸時代後期、意図的に生み出された伝説だと分かる。「藩による増税に領民が対抗するためだった」。唐津の近世史を研究する相知市民センター総務教育課の黒田裕一さん(50)は末孫話をこう読み解く。

 波多氏は、唐津市北波多、相知町にまたがる岸岳に城を築いていた。この地域を中心に殉死や戦死した家臣の墓と伝わる石塔が山際や水田そばで数多く見られる。中でも、波多氏の菩提(ぼだい)寺「瑞巌寺跡」(同市北波多徳須恵)の丘陵では、石塔がまとまって安置され「旗本百人腹切り場所」と伝わる。地元ではこうした石塔を「末孫様」と呼び、ぞんざいな扱いをするとたたりがある神と信じられている。

 「末孫様があるところを工事したら、車が動かなくなった」「山道で誤って末孫様を踏み、発熱したので、おはらいを受けた」。現代でもこんな話を耳にする。石塔の数だけ、殉死者や戦死者が出たのだろうか。まずは秀吉に取りつぶされた波多親(ちかし)と家臣がたどった歴史に目を向ける。

      ◇

 波多親の改易は、秀吉の朝鮮出兵が始まった翌年の1593年。朝鮮半島全域が戦場となっているのに、波多氏は釜山上陸後、周辺の海岸沿いにとどまり、戦おうとしなかったというのが理由だ。

 「釜山周辺は物資補給の重要な港で、波多親は現地で指示に従って港の守りについたと考えられる。それにもかかわらず『前代未聞の臆病者』との中傷があり、秀吉の怒りを買ったとされるが、秀吉は朝鮮出兵後の海外貿易拠点の一つとして波多領の没収を画策していたと思われる」と黒田さん。波多氏は「海の武士団」と呼ばれた上松浦党の盟主として東アジアで独自の交易を行い、豊臣政権がそれを手中にしようとしたという。

 波多親は常陸国(茨城県)の大名の預かりとなった後、1598年に亡くなったとの説があるが、詳細は不明だ。波多氏の後に領主となった秀吉の側近、寺沢広高は主君を失った遺臣たちを自らの家臣とし、庄屋として取り立てもし名字帯刀を許し、準武士の身分を与えた。

 「上級武士並みの扶持(ふち)米を支給された大庄屋もいて武士との婚姻もできた。厚遇を受けており、波多氏の家臣が恨みを抱いて殉死することはなかった」と黒田さんは見る。波多親は秀吉と合戦はしておらず、戦死者も出ていない。

      ◇

 末孫話が文献で登場するのは、三河国(愛知県)から唐津藩主として水野氏が移ってきた18世紀後半からだ。水野氏は三河国で膨大な借財を抱えたまま、唐津に入り、課税対象ではなかった荒れ地からも年貢を取り立てようとした。これに反発した農民や漁民2万5千人が「虹の松原一揆」を起こした。その後も、水野氏は増税の画策を続ける。

 水野氏の前の藩主土井氏の時代、庄屋が中心となって民間塾を開き、農村でも儒学など高い学問が身に付けられるようになっていた。こうした背景もあり、領民は波多氏の時代を懐古するようになる。

 「寺沢氏の検地によって増税が実施され、それが生活困窮の根源になっているとの見方が水野氏時代、領民に広がった。寺沢氏に対する怒りの一方、前の時代の波多親は、領民に恩を施したとして崇拝されるようになった。自分たちは上松浦党の末孫(子孫)という意識も芽生え、結束を固めていった」。黒田さんによると、波多氏に関係する旧跡は聖域となり、上松浦党が供養塔として鎌倉時代から村々に建ててきた石塔は、殉死者や戦死者の墓とする末孫話が生まれていったのだという。

 「石塔がある場所は聖域なので入ることはできない。田畑も例外ではないと領民は主張したでしょう。虹の松原一揆が起きた後でもあり、藩は石塔のある土地で課税を強行することはできなかった」

 唐津市相知町に「岸岳末孫一同の神」と刻まれた石塔が建つ。いにしえの人々が生き延びるため霊を宿らせた末孫様。神として深い畏敬の念を込め祈りがささげられている。

=2017/08/10付 西日本新聞朝刊=

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