鹿島囲碁のまち目指す 囲碁殿堂入り碁聖・寛蓮の出身地 7小学校で授業に導入 [佐賀県]

金の枕を賭けて醍醐天皇と碁を打つ寛蓮(冷泉為恭「囲碁図」、東京国立博物館蔵)
金の枕を賭けて醍醐天皇と碁を打つ寛蓮(冷泉為恭「囲碁図」、東京国立博物館蔵)
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謎の女性に完敗する寛蓮(「今昔物語集」より、奈良女子大蔵)
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祐徳稲荷神社近くに建立された碁聖寛蓮之碑。台座前面に歴代祐徳本因坊の名が刻まれている
祐徳稲荷神社近くに建立された碁聖寛蓮之碑。台座前面に歴代祐徳本因坊の名が刻まれている
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後に寛蓮となる橘良利の生家跡地の一角には、ほこらが設けられ囲碁殿堂入りを記念する案内板も
後に寛蓮となる橘良利の生家跡地の一角には、ほこらが設けられ囲碁殿堂入りを記念する案内板も
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創設2年目の鹿島高囲碁同好会メンバー
創設2年目の鹿島高囲碁同好会メンバー
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 日本囲碁のルーツは鹿島にあり-。当地出身の平安時代の僧・寛蓮(かんれん)が、中国から伝来した囲碁を基に現代に通じるルールを確立したとされる。碁聖とたたえられ、時の天皇と打つほどの名手だっただけではなく、新古今和歌集に和歌を残す教養人でもあった。鹿島市は寛蓮にあやかり、囲碁を通じたまちおこしを目指している。

 源氏物語にも登場

 「寛蓮さんが日本の囲碁の祖として正式に評価された」。こう喜ぶのは、碁聖寛蓮顕彰会会長を務める藤永勝之さん(73)。昨年7月19日、藤永さんらの4年越しの訴えが届き、日本棋院は寛蓮の囲碁殿堂入りを決めた。20人しかいない栄誉で、寛蓮は徳川家康や本因坊秀策らとともに名を連ねた。

 寛蓮は肥前国藤津郡大村(現鹿島市)で874年に生まれ、出家前の名は橘良利(たちばなのよしとし)。囲碁や歌の才を認められて京に上り、宇多、醍醐両天皇に仕えた。無類の囲碁上手というだけでなく、913年に基本的ルールを記した書「碁式」を初めて編み、醍醐天皇に献上したことから日本囲碁の祖とされている。

 寛蓮は碁聖大徳(きせいだいとこ)と称され、その名は源氏物語にも登場する。「手習」の巻で、浮舟の囲碁の腕前に尼僧が「碁聖大徳ほどではないが」と驚く一節だ。しかし、碁式は現存せず、没年も定かではない。鹿島市教育委員会の加田隆志さん(54)は「伝説交じりの存在で、近年まで出生地が確定しなかったため、評価が定まらなかった」と話す。

 発祥の地アピール

 とはいえ、棋士や碁打ちにとって寛蓮は以前から「神様のような存在」(藤永さん)。1952年、祐徳稲荷神社近くに「碁聖寛蓮之碑」が建立され、同年から神社内を会場に「祐徳本因坊戦」が開かれている。アマチュアの大会として最も長い歴史を誇り、歴代の本因坊は碑の台座に刻まれている。

 碑が建てられたのは、当時寛蓮が大いに注目されていたからだ。長崎県が「出身地は大村市だ」と主張。佐賀県と争ったが、最終的に長崎県が鹿島が出身地と認め、和解の証しとして碑には長崎、佐賀両県知事の名を刻んだ。しかし、その後、寛蓮は半ば忘れ去られた存在となる。

 その寛蓮に再び光が当たり始めたのは、2013年に碁式献上1100年を迎えたからだ。藤永さんが顕彰会の活動を再開させ、JR肥前鹿島駅前に「囲碁発祥の地」をアピールする看板を立てるとともに、寛蓮の旧居とされる「橘園」のほこらを整備。囲碁殿堂入りを働きかけた。元参院議員で囲碁研究家の藁科満治さん(85)が文献や現地を調べた結果、晴れて寛蓮は日本囲碁の源流として再評価されるに至った。

 もっと裾野広げたい

 藤永さんらは、鹿島市の全7小学校で13年から「ふれあい囲碁」授業を続けている。簡単な陣取りをしてもらい、まず囲碁の楽しさを知ってもらうのが目的だ。「思ったより簡単」「おもしろい」と子どもたちにも好評。対局を通じて、集中力やコミュニケーション力を高める効果もある。

 01年にスタートした「『ヒカルの碁』鹿島スクール」を経て、15年、鹿島高3年時に祐徳本因坊男子個人戦に出場した中村拓郎さん(20)は、熊本大進学後、囲碁サークルを再建、部長に就任した。

 母校には昨年、囲碁同好会が発足、19年に鹿島市で開かれる全国高校総合文化祭の囲碁部門での勝利を目指し、8人が腕を磨いている。部長の2年坂田久美さん(16)は「寛蓮さんの地元として後輩には恥ずかしくない戦いをしてほしい。ただ、その前にもっと部員を増やさないと」。

 「囲碁のまち・鹿島」の未来は、子どもたちの頑張りにもかかっている。

=2017/09/14付 西日本新聞朝刊=

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