被災地は今 逆境だからこそ前を向く

 ■東日本大震災7年■

 7年の歳月に失ったものの重さを改めてかみしめる。復興の遅れに焦りやいら立ちも募る-。

 そんな被災地の苦悩や焦燥に、私たちの社会はしっかり寄り添っているのだろうか。

 11日で東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から7年になる。政府が10年間に事業費32兆円を投ずる復興期間も3年を残すだけになった。だからといって復興が順調に進み、被災地が以前の姿を取り戻すのは間もなくと考えるのは早計だろう。

 ●古里への帰還ためらう

 3万戸計画の災害公営住宅は月内に96%が完成▽被災国道は99%が復旧▽製造品出荷額は震災前の水準を達成▽津波被災農地の84%で営農再開可能-データだけだと復興が完了間近と考えがちだ。

 福島県でも除染の進展とともに避難指示区域は順次解除された。当初は県全体の8%に当たる1150平方キロメートルだったが、今や370平方キロメートルまで縮小した。

 浪江、川俣、富岡の3町と飯舘村では昨春、放射線量が比較的低い「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」の指定が解除された。間もなく1年になる。

 ところが、今年1月末~2月初めの居住者数は避難前に比べて川俣町30%、飯舘村11%、富岡町5%、浪江町3%にとどまる。解除が先行した楢葉町、葛尾村、南相馬市小高区でも20~30%程度だ。

 除染を進め、道路や農地などを整備すれば、多くの住民は帰還すると踏んでいた国や地方自治体には誤算だっただろう。今なお全県で約5万人が避難生活を送る。

 避難前の人口が5612人だった飯舘村を日本記者クラブの取材団に加わって先月訪ねた。2月1日現在の居住者は607人だ。

 飯舘村は大半が福島第1原発の30キロ圏外にある。「丁寧に心を込めて」を意味する方言の「までい」を合言葉とした地域づくりで注目されたが、事故当時の風向きで放射性物質が大量に飛散したため全村避難を余儀なくされた。住民や村の無念は想像に余りある。

 避難指示解除後の表向きの動きは急ピッチだ。昨年8月、道の駅がオープンした。4月には小中学校と認定こども園が開校・開園する。除染廃棄物を詰めた黒い袋は同県大熊、双葉両町の中間貯蔵施設へ次々に運び出されている。

 しかし昨年1月、村による住民意向調査では「村に戻りたい」33・5%、「戻らない」30・8%、「まだ判断がつかない」19・7%と回答は分かれた。調査に応じなかった世帯も55・3%に上った。

 買い物など生活インフラ整備の遅れ、なりわいを一から築く労苦、全国の中山間地域と同様に進む高齢化、避難先への定着-愛着ある古里への帰還をためらわせる「壁」は多い。復興がハード事業に偏っている側面も否めない。

 いつまでかかるか不透明な原発の廃炉問題が懸念を増幅させる。福島県が県外を希望する汚染廃棄物の最終処分地も見通せない。

 ●新たな価値観を発信

 それでも被災地は前を向く。「新しい村をつくるぐらいの自由な発想を持つ」「原発事故で学んだ大切なことを忘れていないか。お金から命に軸足を移したい」-菅野典雄村長の言葉は心に響く。

 村は、帰還しない住民を含めて村外との連携強化のため、住民登録がなくても一定の公共サービスを提供する「ふるさと住民票」の導入などに取り組むという。

 飯舘村から南に80キロのいわき市郊外で高級割り箸を製造・販売する「磐城高箸」の高橋正行社長(44)は、神奈川県からの移住者だ。祖父や父にゆかりのあるいわき市で割り箸作りを始めたのは大震災のわずか4カ月前だった。

 大きな揺れで機材が壊れ、気持ちも折れかかったが、福島・宮城・岩手の被災3県のスギを使った3膳セット「希望のかけ箸」のヒット商品を送り出した。熊本地震支援のセットも作った。

 事実上1人で始めた会社は、大震災を経て6人になった。高橋さんは「木を使わないと日本の森は駄目になる」と意欲的だ。

 逆境にあるからこそ、なのだろう。東北の被災地は新たな発信を始めた。九州で暮らす私たちが学ぶべきことも多い。どこまでも被災地とともに歩む決意を、7年を機会に再確認したい。

=2018/03/09付 西日本新聞朝刊=

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