【「伝統」の役割】 宮本 雄二さん

宮本 雄二(みやもと・ゆうじ)さん=宮本アジア研究所代表、元中国大使
宮本 雄二(みやもと・ゆうじ)さん=宮本アジア研究所代表、元中国大使
写真を見る

◆社会のバランサー必要

 若いころ見たミュージカル映画「屋根の上のバイオリン弾き」に「トラディション(伝統)」という歌がある。その中に「われわれはどのようにしてバランスを保つかって? 一言で答えよう。それは伝統だ!」という一節がある。この言葉が、歴史と伝統が色濃く漂う太宰府で生まれ育った私に、伝統の持つ意味について改めて正面から考えさせてくれた。

   ---◆---

 そのころの日本社会の風潮は、戦前、つまり古いものを否定し、米国、つまり新しいものにあこがれるというものだった。社会も激動の時期を迎えていた。日本は1955年から73年まで、実質経済成長率が年平均10%近い高度成長を経験した。私の9歳から27歳までのころだ。個人の収入も急上昇し、農村から都市への人口の急激な流出と流入は続き、ライフスタイル(生活様式)、そして人々のものの考え方まで大きな変化が起こっていた。

 それは社会の決まりが一度リセットされる過程でもあった。社会は自由であり、発想も考え方も行動も自由だった。ソニーやホンダが海外へと羽ばたいていった。米国の物質文明と新しい文化が日本を圧倒した。

 しかし自由と新しいものに熱狂しながら、心の中には常に不安があった。一生、このスピードで変わり続けなければならないのかという不安であり、どこにたどり着くのか、米国のような社会で良いのか、という不安でもあった。ベトナム戦争を経て米国社会の抱える深刻な問題も見えてきていたのだ。

 「トラディション」は「伝統がなくなれば、われわれの一生は屋根の上のバイオリン弾きのように不安定なものとなる」という言葉で終わる。

 あの時代の日本に伝統を正面から見据える風潮はなかった。あたかも進歩と対立するものとして捉えられ、脇にどけられていた観があった。つまり変化のバランサーとしての伝統を意識していなかったのだ。もちろん伝統は無意識の中にわれわれの判断や考え方に影響を及ぼしている。その力はやはり強い。だから経済成長の速度が低下し、社会の変化の速度も遅くなってくると徐々に伝統的なものが頭をもたげてきている。

   ---◆---

 だが21世紀に入り、変化の速度は想像を超える。それがさらに加速するのだ。バランサーとしての伝統は、ますます必要となる。伝統はコミュニティーとして生きる知恵が結実したものでもあり、人の心に安定感を与える。伝統といわれるものが、どのようにして出来上がり存続してきたか、明治以来の近代化の中でわれわれは何を失ったのかを、現在の目でもう一度眺め、精査する必要がある。

 伝統は「型」を持つ。「型」は精神を表す。人々はその「型」に習うことで安心感を持ち、コミュニティーとの一体感を持つことができる。これから必要なことは、それと同じ役割を果たす新たな「型」を見いだすことだ。

 戦後世代の反省の一つは、伝統と正面から向き合うことをせず、伝統の持つ積極的な意義を意識的に活用しなかったことだ。急激に変わる21世紀の社会と世界を生き抜くために、伝統に正面から向き合うことが不可欠となる。そして新たな「型」を見つけ出すのだ。その新しい発見の中に、コミュニティーのメンバー全員が自然に参加し協力し合い助け合う「型」が必ずあるはずだ。テクノロジーが無限の進歩を遂げていく中で、人は機器の助けを借りて他の人とつながり、人と人との関係は疎遠になっていく。

 だが人間性の根源は、人が直接つながる社会にある。伝統を深く知ることで人間性を取り戻したいものである。

 【略歴】1946年、福岡県太宰府市生まれ。修猷館高-京都大法学部卒。69年に外務省入省。中国課長、アトランタ総領事、ミャンマー大使、沖縄担当大使などを歴任。2006年から10年まで中国大使。著書に「強硬外交を反省する中国」など。

=2018/11/19付 西日本新聞朝刊=

西日本新聞のイチオシ [PR]

西日本新聞のイチオシ [PR]