6・3「定点」に立って 編集企画委員長 長谷川 彰

 少し控えめにサイレンが響き、半鐘が打ち鳴らされた。6月3日午後4時8分。長崎県の普賢岳の麓、島原市北上木場町に立った。

 27年前のちょうどこの時、ここで火砕流に襲われ、43人が帰らぬ人となった。その数日前まで現地にいた記者の一人として「平成最後の6・3」に、北上木場農業研修所跡であった慰霊式に参列した。

 当時、研修所にほど近い場所を、報道カメラマンが「定点」と呼び、陣取っていた。「ここは高台。火砕流も土石流のように水無川を流れていく」「こちらに向かってきた時はすぐに逃げれば大丈夫」-報道関係者には、そんな思い込みがあったように思う。

 最初に小規模な火砕流が起きたのは5月24日朝だった。私は過剰なほど、これに反応した。火砕流という言葉を初めて知ったのは、以前に鹿児島で勤務した際、鹿児島大の大庭昇教授に桜島について取材した時だった。大庭教授は、1902年に西インド諸島のプレー火山で発生して数万人が犠牲になったことに触れ、「日本の火山でも起こり得る」と強調された。その言葉が脳裏をよぎったからだ。

 そんな事例も紹介した記事は当初、専門家から、同じ火砕流でもプレー火山の「爆発型」と今回の「崩落型」を混同し、恐怖感をあおり過ぎだと戒められた。ただ、火砕流の到達距離は日に日に延びていく。九州大の観測所で、所長の太田一也教授に再三、「上司に言って、報道陣を下げさせなさい。命の保証はできないよ」と強く忠告された。

 だが、危機感は現場にうまく伝わらず、自社だけ撤退はできないという各社の論理も絡み、ついにはチャーターしたタクシーの運転手、報道陣がいたがために警戒に当たっていた消防団員や警察官も巻き込まれた。本紙は、用務で記者を支局に呼び上げていたため偶然にも惨事を免れた。

 慰霊式の片隅で、喪服姿の女性と言葉を交わした。当時は小学生で、知人の父親が犠牲になった消防団員だったという。話の流れで、当時の私の記事などは結局、報道の仲間さえ説得できなかった-そう胸の奥に残る思いを打ち明けた。「自分の無力さを責めるより、みんなが教訓を忘れないよう記事を書き続けてください」と言葉を返された。

 平成新山となった溶岩ドームはこの日、もやと逆光でかすんで見えた。その地下ではマグマの蓄積が続き、次の噴火へと静かに準備が進む。霧島山、桜島でもしかりだ。くしくも3日、中米グアテマラのフエゴ火山が噴火し、火砕流が多くの命を奪った。悲劇は決して過去形ではない。

=2018/06/08付 西日本新聞朝刊=

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