九州の「富人」ならば 編集委員 鶴丸 哲雄

 明治の文豪・森鴎外が明治の後半に陸軍軍医として3年近く暮らした地が、福岡の小倉である。鴎外は母への手紙で小倉への異動を「左遷」と嘆きつつ、地元紙への寄稿や講演など精力的に活動し、九州に近代文化を植え付けた。

 その小倉にある北九州市立文学館が、小倉時代の新聞への寄稿や手紙などを収録した「森鴎外小倉著作集」を出版した。冒頭を飾るのが「我(われ)をして九州の富人(ふうじん)たらしめば」(私が九州の資産家ならば)という寄稿文だ。本紙の前身の福岡日日新聞に1899(明治32)年、掲載された。

 小倉に着任後ほどなく筑豊から人力車に乗ろうとした鴎外。十数人いた車夫全員に断られ、雨の中、ぬかるんだあぜ道を8キロも歩くはめになる。当時、絶頂にあった筑豊の炭鉱主らが破格の金額を車夫に弾むため、正規料金で乗車しようとした鴎外は、歯牙にもかけられなかったのだ。

 これに憤慨した鴎外が「私が炭鉱主ならこうする」と主張したのが例の寄稿。労働者の保護、保険、衛生事業の大切さを説く。汽車の上等室を占領し、もろ肌を脱ぎ涼を取る野蛮さを戒める。その上で、最もなすべきは芸術の守護と学問の助長と結論づけた。

 文豪の警句は、九州の「富人」たちを動かす。炭鉱主の安川敬一郎は1909年、明治専門学校(現九州工業大)を開校した。石炭商の佐藤慶太郎は21年、東京府美術館(現東京都美術館)の建設に100万円もの巨費を寄せた。

 その九州の富人の系譜をたどるうちに、麻生太郎副総理の顔が浮かんだ。曽祖父の太吉氏は「筑豊の炭鉱王」。父祖の地・筑豊は、副総理の政治活動を支える金城湯池だ。

 そんな麻生氏が講演で、新聞を一番読まない若い有権者層が自民党を支持していると指摘した上で、「新聞に協力なんかしない方がいいよ。新聞販売店の人には悪いけど」と発言した。前段の若者の新聞離れはご指摘の通りだ。ただ、新聞に協力するなという発言は、言論の自由を保障する憲法の順守義務を担った副総理としていかがなものか。

 寄稿で鴎外は「趣味を授けこれを長ぜしむる任は新聞にある」とも記した。物事の善しあしを判断する力を養う一助にしてもらうのが新聞の役割という意味だ。寄稿の締めでは、何か一事を成すのなら、自分だけでなく他人、そして次世代の生活を守り豊かにすることこそが肝要と説いている。

 副総理にぜひ、この新聞寄稿文を読んでいただき、富人の振る舞いについて考えてほしいものだが…。でも、新聞、お嫌いなんですよね。

=2018/07/18付 西日本新聞朝刊=

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