地域の宝と平野富二 デザイン部次長 大串 誠寿

 1856(安政3)年、フランスの画家ブラックモンは、日本から輸入された陶器の梱包(こんぽう)材の古紙に「北斎漫画」を見いだした。これを機に葛飾北斎は世界的芸術家として評価され始めた。灯台下暗し。日本人は自国の宝を、外国人に教えられたのである。

 九州に住む私たちにとって灯台下暗しのような人物の一人に、幕末の長崎人、平野富二がいる。日本を代表する製造業石川島播磨重工業(現IHI)の前身となる造船所の創始者である。

 16歳で長崎製鉄所に蒸気機関手見習いとして出仕し、実務家としての歩みを始めた。上司・本木昌造の指揮下、チャールズ号機関士として大阪、江戸の海を巡る。

 その後、第2次長州征伐時に幕府軍艦回天丸を、さらに坂本龍馬率いる海援隊と夕顔丸を操り、幕末動乱の舞台裏で活躍した。夕顔丸は龍馬が船中八策を練った船である。

 龍馬暗殺を機に長崎に戻って、小菅修船場の初代所長となり、大型船に対応できる立神ドックの建設を実現した。両施設は現在の世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産へと連なる。

 平野は現場で汗する情誼(じょうぎ)に厚い人であった。作業員の間で争議が生じた際には、病床にあったわが身を戸板で運ばせ、仲裁に当たったという。本木から活字普及事業への助力を請われるや、約5年にわたり自らの造船事業の夢を封印して恩師を支えた。

 活字事業完成の後、東京湾石川島に初の民間造船所を創設。鉄鋼軍艦「鳥海」を建造するなど成果を挙げ、重工業発展の礎を築いた。

 日本近代化に輝かしい足跡を残した平野だが、長崎をはじめ九州での知名度は低い。前半生が本木や龍馬の裏方で、後半生は活躍の舞台が東京に移るためか。

 ただ、今後は知名度が上がりそうだ。一昨年、長崎市内で生誕の地が特定されたのである。約2年の準備期間を経て石碑が建てられ、先月24日に除幕された。市内桜町の長崎県勤労福祉会館前にある。

 生家の位置を古文献から確定したのは宮田和夫氏(53)だ。長崎市の日本二十六聖人記念館のマネジャーを務めるかたわら平野に注目し、調査を続けてきた。宮田氏は碑の建立の意義を「長崎の人々に地元の偉人を知ってもらうための第一歩」と語る。

 特筆すべきは、この建立事業が活字研究者ら東京の有志主導で実現したことだ。灯台下暗しの北斎ではないが、今後は平野富二はもちろん、それぞれの地元の偉人をよく知りたい。先達の遺徳は故郷の宝である。

=2018/12/05付 西日本新聞朝刊=

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