良質の「演説」聴きたい 報道センター長 進藤 卓也

 大分の旧中津藩には「演舌(えんぜつ)書」なる文書があったそうだ。藩士らが一身上の出来事や職務に関する私見を書いて上役に提出したものという。

 明治のはじめ、「スピーチ」という英語が入ってきたとき、福沢諭吉は郷里のこの言葉を訳語に充てた。ただ、「舌」ではあまりにも俗っぽいので「説」の字に改めた、とも伝わる。

 諭吉翁が腐心して生み出した「演説」の2文字だが、最近の政治家の言動を見るに、そこまでのご配慮は無用だったのではとも思えてくる。

 耳に聞こえの良い公約をただ舌上でもてあそび、転がすかのような。言葉が軽く舌先から出た途端に霧消してしまうかのような。無責任な「演舌」が広がってはいないか。

 フランスのド・ゴール元大統領は言ったそうだ。

 「政治家は心にもないことを口にするのが常なので、それを真に受ける人がいるとびっくりする」

 そこまではっきり本音を言われると、こちらがびっくりしてしまうのだが。

 4年に1度の統一地方選が明21日、スタートする。

 全国11道府県の知事選が告示され、九州では福岡、大分2県で選挙戦が始まる。その後も各県議会の議員選や、市町村の首長、議員を決める選挙が1カ月先まで続く。

 良質の演説を聴きたいと思う。自らの言葉で、分かりやすく信念を語ってほしい。現実味のない空疎な夢物語はいらない。限られた財政の中でできること、できないことを明示して、地域の課題と未来を語ってほしいと願う。

 過去の統一選に比べて今回は、一部の議会の危機と、多くの選挙での低投票率が懸念されている。

 前者は深刻な過疎、高齢化に伴う議員のなり手不足。九州でも立候補者が定数に満たない選挙が現実になりつつある。「そもそも民主主義とは…」と、建前や理想論で語れる段階は、もう過ぎ去っているのかもしれない。

 後者はどうだろう。投票に行かなかった人たちを新聞では「無関心層」と解釈する。けれど為政者は違う。「文句がないのは白紙委任」と都合よく曲解する。それが怖い。

 私たちが選んだ政治形態は実に手間暇がかかる。時に面倒でもどかしくさえある。1票の重み、と言ってもやっぱり1票でしかない。それでも、一人一人の意思の積み上げこそが物言うすべとなる。

 民主主義を語るとき、こんな警句も引用される。

 「劣悪な公職者は、投票に行かぬ善良な市民によって選ばれる」

=2019/03/20付 西日本新聞朝刊=

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