「蛍の光」の80年 デザイン部次長 大串 誠寿

 卒業式で「蛍の光」を耳にする季節だ。苦学生が蛍の明かりで書を読んだとする中国の故事成語に由来する唱歌だが、後世の発明家は本当に書が読める蛍の光を作った。

 蛍光灯だ。電灯より約半世紀遅れて米国で実用化され、日本では1940年から用いられた。金属線を白熱させて光を作る電灯と異なり、放電現象を利用した。余分な発熱が少なく寿命も長かった。

 蛍光灯の日本での初仕事は法隆寺金堂の壁画修復作業を照らすことであった。シルクロードの莫高窟(ばっこうくつ)壁画と並び称される重要文化財である。

 既に34年から国主導で始まっていた昭和の修復事業では、原寸大で写真を撮影し、それを下絵に彩色模写絵が製作された。当時はまだカラー写真は存在せず、色の表現は画家の目と手が頼りだった。

 しかし金堂内は薄暗く照明が不可欠だったが、灯火や電灯は光が黄色みを帯びているため、正確な色を判別できなかった。それを可能にしたのが白い光を放つ蛍光灯だった。堂内に100本もの蛍光灯が投入され、色鮮やかな壁画は正確に記録された。

 本来ならこれが蛍光灯のデビューを飾る美談となるはずが、現実は悲劇となった。模写作業終盤の49年、火災により壁画の大部分が焼損してしまったのである。出火原因がさまざまに取り沙汰されたが、蛍光灯の名誉のために、火元は電気座布団であったことを強調しておきたい。

 戦時中、蛍光灯は民需に回らず軍艦などの照明に用いられた。艦砲射撃の振動で電灯は切れたが、蛍光灯は耐えたのである。密室となる潜水艦でも快適な光源とされた。

 戦争が終わっても庶民にとっては高根の花だった。若き日の漫画家・手塚治虫氏は、電灯の下でライオンを描き、白い絵の具を黄色と見間違えたため、白ライオンに仕上げてしまった。この失敗は逆に「ジャングル大帝」の主人公を生んだが、蛍光灯抜きの創作活動の困難さを物語る。

 蛍光灯は高度経済成長期を経てようやく、庶民の明かりとなった。良質な光が社会の隅々まで行き渡り、モノづくり日本の発展を支えた。

 80年にわたり日本を照らし続けた蛍光灯だが、その役目を終える方向にある。主要電器メーカーは今月末で蛍光灯照明器具の生産を終了する。政府のエネルギー基本計画などを踏まえた流れである。蛍光灯ランプの生産は継続されるとのことだが、器具の劣化とともにLEDランプに置き換わってゆくのだろう。

 平成が終わろうとするこの春、蛍光灯照明器具からも「蛍の光」が聞こえてくる。

=2019/03/23付 西日本新聞朝刊=

西日本新聞のイチオシ [PR]

西日本新聞のイチオシ [PR]