散った青春、甲子園で祈り 長崎商、175人犠牲の学校でも慰霊

西日本新聞

 71年前、長崎に原爆が投下されたのと同時刻の9日午前11時2分、兵庫県西宮市の甲子園球場では、全国高校野球選手権大会に29年ぶりに出場した長崎商ナインが初戦を戦っていた。同校の前身、長崎市立商業学校は原爆で校舎が焼失し、生徒ら175人が亡くなった。この日、同校で営まれた慰霊祭では卒業生らが犠牲者に祈りをささげ、後輩たちが野球に打ち込める平和の喜びをかみしめた。

 11時2分が近づく一回表の終了後、長崎商の応援席がある三塁側アルプススタンドでは全員が立ち上がり、長崎のあるライト方向を向き黙とう。投下時刻をはさみ、ナインも二回表の攻撃前にベンチ前で黙とうした。

 「白球を追いかけられることを当たり前と思ってはいけない。平和の幸せと感謝をかみしめてほしい」と西口博之監督は語った。

 応援の吹奏楽部員で3年の西舞花さん(18)は母方の祖父母が被爆。「子どもの頃から8月9日は大切な日。犠牲になった方を思い、先輩たちがいたからこそ今日があると思う」

 長崎商(長崎市泉町)では、生徒や教員の多くが甲子園球場で応援。慰霊祭には約50人が出席し、サイレンが鳴り響く中、黙とうをささげた。参列した卒業生の末次真さん(83)は、ゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏に浮かんだのは昨年、亡くなった同級生。野球部で活躍し、プロに進んだ友に「後輩たちは君の分も野球を楽しんでいる。きっと将来、平和を守ってくれるはずだ」と語り掛けた。

 商業学校は爆心地から北西に1・1キロの近さだった。1年生だった川添猛さん(84)は防空壕(ごう)内で作業をし、奇跡的に生き残った。壕から出ると街は一変。黒く焼けた同級生をリヤカーに乗せ、がれきで埋まった街を決死の思いで自宅まで送り届けた。しかし、2日後に亡くなり「生き残り、犠牲者に申し訳ないという思いをずっと抱えてきた」と語る。

 野球部OB会最高顧問で被爆者の渡部稔さん(81)は、1952年夏の甲子園大会で4強入りしたメンバー。爆心地から3キロほどの自宅裏で被爆し、5年後に入学した。グラウンドはあっても周辺はまだ焼け野原で「練習ができるだけで幸せだった」と振り返る。

 この日は病気療養のため、甲子園には駆け付けられなかった。「二つの時刻が重なったのも何かの運命だろう。長商球児が好プレーを見せることが恒久平和のメッセージ発信になるはず」とナインを激励した。

=2016/08/09付 西日本新聞夕刊=

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