ノムさん「サッチーのおかげで南海から捨てられた」/ホークスOBトーク1

西日本スポーツ

トークショーで息のあった掛け合いを披露した野村克也(左)と江本孟紀(右)の両氏=ヤフオクドーム(3月31日) 拡大

トークショーで息のあった掛け合いを披露した野村克也(左)と江本孟紀(右)の両氏=ヤフオクドーム(3月31日)

 ソフトバンクは3月31日のオリックス2回戦を、球団創設80周年企画「レジェンドデー」の第1回として開催した。ゲストとして招かれた南海OBの野村克也(82)、江本孟紀(70)の両氏は試合前にヤフオクドーム内の「王貞治ベースボールミュージアム」でファン約100人を前にトークショー。その様子を2回に分けてお届けする。


野村克也氏(以下、野) 80年…同い年ですね。ちょっとだけ…2年、僕の方が上ですけど。だから僕がちょうど生まれた頃にできたんですね。そうすると長いですね。まあいろんなことがありましたけど、南海で育ててもらって、南海で捨てられて。サッチーさんのおかげで捨てられました。

-江本氏とはいわば師弟関係。

野 ちょっと待ってくれる。師弟なんて思ってないよ。

江本孟紀氏(以下、江) まあ、あの。弟子でございます。

野 エェッ。そんなこと言うの。今、初めて聞いた。

江 ええ、おかげで野球選手にさせていただきまして。ホークスという場所でね、何とかなりました。

野 こっちが感謝してる。私の中で「3悪人」っていて。江夏(豊)、江本、門田(博光)。3人に育てていただきました。だからその後、いろんな球団行きましたけど、彼らを経験してるから全然こたえない。山崎(武司)がどうだとかってね、全然。この3悪人に比べたらかわいいもんでね。

江 いや、でも2代目なんですよ僕ら。3悪人、もとは野村、広瀬(叔功)、杉浦(忠)。初代ホークスの3悪人。それをわれわれが引き継いだ。

―野村氏は江本氏をどう見ていたのか。

野 うーんまあ、江本に関しては、よう頑張ったな、よう努力したなって印象は、全くないんだけど。

江 もう僕は素質だけでやってたんで。

野 ほんと人生ってまさに縁ですけど。彼が東映にいるとき、田宮(謙次郎)さんが監督で。敗戦処理ばっかりで出てきたんですよ。リリーフでね。もう負けがほとんど。いいピッチャーなのに、なんでこんなの使わないんだろうって。不思議に思ってたんですよ。

 そしたらその田宮監督から、突然、私んとこに電話ありましてね。「高橋博くれないか」っていう。私の控え(捕手)で。「高橋は野村んとこ居たら、永久に出られねえだろうが」と。キャッチャーはポジション一つですからね。僕の控えですから。だから譲ってくれないかっていう。

 で、分かりました、考えましょうってことで、トレード成立して…その時、南海の監督やってたんですけど、ピッチャー、数がいないんですよ。西岡三四郎ってご存じ? 彼がエースですよ。そんなチーム…。

 私の前の監督は飯田さんなんですよ。全盛期の4番バッター。その飯田徳治さんが3年契約でやられて、1年目に断トツの最下位になって、責任取って1年で辞められたんですよ。その後(自身が監督を)やらされてんの。ええもう、どうしよう、こうしようって。そういう星の下に生まれてんですよね、僕。

 まあとにかく野球はピッチャーですから。単純な原理で。0点で抑えりゃ100パーセント負けないですから。とにかく投手陣の整備という、これ(テーマ)を持ってやりだしたんですけど、いないんですよピッチャー。いいピッチャーってどこも出さないじゃないですか。

 たまたま高橋博ってキャッチャーですけど、譲ってくれないかって田宮さんから電話があって、それでピンと、江本狙おうと。で、すぐ返事したら出し惜しみすると思って。「3日ほど考えさせてください」と。その時にはもう既に、江本って決まってた。

 で、3日後に電話して「おたくに背の高ーいピッチャーがいましたよね。誰だったかなぁ」「誰かなぁ」「江本かなぁ」「あぁそんな名前でした」ってとぼけてたね。1対1では釣り合いが取れないからって、こっちの方が余計なこと言って。あの時はもう一人、野手でも誰でもいいから付けてくれって言って、ショートがいなかったんで、佐野(嘉幸)ってショート付けて、1対2でトレードが決まったんですけどね。

-江本氏をどう評価していたか。

野 まあ、ノーコンピッチャーです。でも球速いからね、ストライクが入りゃ何とかするという思いがあったもんで。ストライクなら放れるだろうって。田宮監督から電話があったときに、即、頭に入れて、譲ってもらったんですよ。


(この時、江本氏が自身のトレーディングカードを眺めており)
江 いや、あのー、南海ホークスでの自分の成績が出てるんです。これを今、見てたんですけど、言うと何か自慢話みたいになるんで、やめとこうかなって(笑)。野村監督、当時は4番でキャッチャーですから。バッテリーでね、試合をやったんですけど、まあそのおかげで、ここに記録がありまして。入った年(1972年)はね、38試合あって、14完投で16勝してるんですよ(場内拍手)。

 翌年がもっとひどいんですよ。翌年が12回完投して12勝14敗。いかにバッターが悪かったか。もっとひどいのはですね(75年)、13完投して、11勝14敗。防御率2.96で。いかにバッターが悪かったかという(笑)。

 だけどね、チームは3位ぐらいの力でした。それで優勝したんですよ。(移籍して)2年目に。これはね、なかなか予想されてなかったんですよ。もう強いチームがいっぱい。阪急が強い、近鉄が強い、ロッテも強い。ねえ。あの頃、ほんと、強かったですよ。そこにまあ、一丸となってというかね、野村・シンキング・ベースボールで。

野 パ・リーグはお客さんが入らないっつってね。130試合を半分に、前期後期という制度を一時やってて。その初年度なんですけど。まあ65試合も130試合も、僕は一緒だと思って。長丁場に間違いないと。

 ところが金田(正一=当時ロッテ監督)さんを筆頭にね、(他の)全監督は、これは大変だ、トーナメント方式でいかなきゃ勝てないぞって言って。ちょっとローテーションを崩して、もうエースをどんどんどんどん使って、後半バテてきたんですよ。その間隙を縫って「ゴメン」っていう優勝したんですけど。

 まあ~あの年は、僕の戦略というか、怖いぐらいうまく…実力はほんとにBクラスなんですけど、ただひたすら野球の、意外性のスポーツっていう特質を信じてやってみたんですけど。まあ…プレーオフにもっていって。5回のうち3回勝たな、いかんでしょう。全部勝ちにいったら全部負けるから、捨てゲームをつくったの。

 それで1回戦がもう全てだと思って。最初に負けちゃうとズルッと3連敗すると思って。相手は阪急。で、南海の選手は、もう勝てないと思ってるわけですよ。そんなことない、野球は意外性のスポーツなんだという思いがあるもんですから、とにかく第1戦勝てば、お、いけそうだな、あと二つやなと、選手がそんな思いに走るだろうと思って。

 あれはほんとに僕が…あの年は僕、一生忘れない、いい結果に結びつきました。思い通りにいきました。

-江本氏も大車輪の活躍。

江 それを(野村氏が)言ってくれるかなと思ったら…自分で言わなきゃしょうがない(笑)。私は当然、1戦目の先発と予想されたんですけど、監督は「いや、1、3、5と勝とう」と。捨てゲームは2戦目と4戦目。だから1戦目はおまえリリーフ、最後いけと。佐藤ミチ(道郎)というリリーフはいたんですけどね。まあ、1戦目にやっぱり、言われたように、この試合、勝とうという態勢をとって。

 で、私が3戦目に先発したんですよ。これまあ、軽く完投勝ちしまして。それで4戦目はまあ、軽く負けまして。で、5戦目、またベンチ入って、またリリーフ態勢ですよ。で案の定、最後に監督が。ベンチで私はもうユニホームも帽子もグラブも放ってね、もう優勝すると思ってたら、オイオイ、行けって。

 いや私、無理って言って。その2日前に完投勝ちしてるわけ。だから、いや無理です!って言ったけどオイオイって。それでマウンドに上がって、最後のバッターを取って、優勝したんですよ。だから南海ホークス最後の優勝ですよね。これ、作戦が当たったんですよ。1、3、5と取ったんですからね。

-江本氏も意気に感じて応えた。

江 さっき記録、見せたでしょ。だいたい10完投ぐらいは普通にしてたわけですから、シーズン中。それぐらいは絶対平気です。

-選手にとっては斬新な戦略。

江 そらもう阪急と南海の力の差つったら、もう話にならないぐらい(阪急は)強かったです。だから工夫したわけですよ。どうやったらあの強いチームに勝てる?と。これはもう、シーズン中からずっと、まあミーティングなり何なりね、相手を研究するなり、随分やりましたからね。

 で、あのー、クイックモーションなんていうのもね。ええ。あの、キャッチャー、肩は強かったんですけど(笑)。あの、100個も盗塁するやつ(福本豊氏)がいてね。馬と競走するようなやつですよ(実話)。あれを封じるのに。

 で、結局ねえ、1年間クイックモーションやって、さんざん苦労したんですけど、そのプレーオフで2回刺してるんですよ。普段はこんな球(捕手の送球が力ないというジェスチャー)なんですけど、ものすごい…そのためにずっとやってたようなもんでね。

野 まあ阪急って人気のないチームでしたけどね。長い野球の歴史の中で、野球界を変える、野球を変えた選手って何人かいますけども、そういった意味では福本も、ほんとに革命を起こしたというか、パ・リーグの野球を変えましたよね。

 クイック投法…クイックっていう言葉もなかったんですよ。私はキャッチャーですから、ピッチャー連中に、おまえ、ちっちゃいモーションで投げろと。おっきなモーションで投げて殺せるかぁって。投げるときからもう、福本スライディングしてるよって。そう言ってねえ。ちっちゃいモーションで投げろって。誰がつけたのか分からないんですけど、いい命名したなと思って。クイックモーション。

江 その当時ね、やっぱ先見の明があるっていうのが、監督が例えば自主トレでもね、寒い日はプールで水泳の練習をやったりとかしてるんですよ。その当時、外国人のコーチを呼んできたんですよ。この人がね、クイックモーションの天才みたいな人で。その時、われわれも教えられたんですよ。そういうのをね、早くから取り入れるし。

 それからトレーニングコーチも、もうあの当時から東京教育大(現在の筑波大の母体)のスポーツ専門のトレーナーを呼んできてるんですよ。昭和40年代ですよ。だから南海ホークスの大阪球場の地下には、もうウエートトレーニング場がビッとあったんですよ。今どきやってるように皆さん思い違いをしてるけど、われわれの時代にはもう既にあったんです。

 ただ、おまえやったか?って言われたら全然、やってない(笑)。

野 当時はもう肩冷やしちゃいかんっていうんで、水泳は禁止ですよね、野球って。で、重いもん持っちゃいけないっていう。そういう時代ですから。それが全くわれわれの時代から正反対になって、みんなもうバーベル挙げて、筋肉つけるようなトレーニングに変わっていきましたけれども。

江 そらもう、そういう科学トレーニングみたいなものは、昭和46、7年ぐらいかな? 南海ホークスではやってましたよ。

野 当時いろんな形で動いたんですけど、誰も何も言わないんですよね。野村のノの字も言わない。人気冥利(みょうり)の世界で生きていながら。人気にゃ全く縁がない。

 (2につづく)

=2018/04/01 西日本スポーツ=