ソフトバンクルーキー嘉弥真、努力重ねた石垣の雑草

西日本スポーツ

ソフトバンクルーキー 黄金時代の主役たち ドラフト5位・嘉弥真新也

 石垣島の南端、北半球で最大規模のアオサンゴ群落で知られる白保地区。嘉弥真家の長男として生まれた新也は、小、中学校と軟式野球でプレーし、八重山農林高で硬式野球部に入る。ベンチ入りしたのは2年夏。当時3年生の八重山商工高・大嶺祐太(現ロッテ)を「すげーな」と見ていただけの頃で、出番は「代打」だった。

 3年夏は沖縄大会1回戦敗退。2番手投手で、2点リードの8回無死満塁でエースを救援も、9回2死から追い付かれ、延長11回に勝ち越された。この試合で5打数4安打。打者としては将来を有望視されていたが、周囲の評価はプロ注目まではなく、沖縄球児の好選手止まりだった。

 進路の決まらない嘉弥真に手が差し伸べられる。沖縄本島で不動産業「ビッグ開発」を営んでいた下地剛からだった。2年前まで浦添商高のコーチを務めており、同高の教え子から「働きながら野球ができる環境をください」と頼み込まれ、翌春のクラブチーム立ち上げを決めていた。「実力より人数集めが先でした」。八重山農林高監督の頼みもあり、嘉弥真は1期生の一人になった。

 入社直後は研修生で月給12万円。寮のマンション1室を選手3人で分けた。本拠地はなく球場を比較的、借りやすい平日午前9時~正午が練習。その前後は社業で物件の清掃だった。勤務態度は実直だったが、体重59キロの左腕の立場は1年目で4~5番手、2年目でも2番手に甘んじ、冬は同僚捕手に連れられ深夜のブルペンで投げ込んだ。

 その後の野球人生を決める目安にとクラブ内で決められていた3年目。嘉弥真の人生は急速に動きだす。3月に亜大の沖縄・東風平(こちんだ)キャンプに交流のため短期間参加。ここで目を留めた亜大の生田監督からJX-ENEOSの大久保監督に連絡が入り、8月、本拠地川崎市で練習に参加することになった。戻った嘉弥真は興奮気味だった。下地は振り返る。「いたのは都市対抗に出ていないメンバーだったそうですが。どうもそこで『やれる』と錯覚したようで…」

 芽生えた自信を裏付けるように実績も積み重ねていった。5月に都市対抗の沖縄県予選決勝で沖縄電力に2失点完投勝利。10月には北九州での西日本クラブカップを制し、MVPを受賞した。そして12月、JX-ENEOS移籍。石垣の雑草がプロの注目を浴びるのはこの9カ月後。翌秋ドラフト直前だった。 =敬称略

 (森 淳)

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