猛反対の父説得し来日「宇津木」姓でも養女ではない

西日本スポーツ

 東京五輪で日本選手団の先陣を切って登場するソフトボール女子日本代表の宇津木麗華監督は、北京五輪以来となる金メダル獲得の期待を担う中で令和を迎えた。

 生まれ故郷の中国から昭和に来日し、選手や指導者として平成を駆けた勝負師は、いま56歳の熱い夏を過ごす。一度は五輪から除外された期間の苦しさを知るからこそ、選手には日本代表として五輪で戦う意味や価値を問い続けてきた。東京五輪を「競技人生の集大成」と言い切る宇津木監督が思いを語った。

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 私の呼び名の「れいか」にどことなく似た「れいわ」の時代を迎え、もう3カ月になる。中国の北京で生まれた私が日本に来たのは24歳のとき。1988年3月で、まだ昭和だった。まさかすぐに元号が改まるとは思わず、激動の平成の世を経て、東京五輪前年に令和となった。三つの時代とともに日本で生きている。

 軍人だった父はスポーツ好きでもあり「何か一つ、夢中になれるものを持ちなさい」と教えられた。卓球、バドミントン、バスケットボール。何でもできた私は、小学校から中学校にかけて陸上競技のやり投げで頭角を現した。肩の強さを見込まれて14歳でソフトボールに転じ、ほどなく当時現役で、中国に遠征してきた宇津木妙子さん(元女子日本代表監督)と出会った。小柄な妙子さんのパワフルな打球を中国代表の二塁手が“トンネル”した場面は鮮明に覚えている。憧れは私が中国代表に選出されてからも募る一方。10年後、当初猛反対した父を説得し、来日したのも、のちに家族同然の間柄となる妙子さんを慕ってのことだ。

 私は姓が宇津木なので、妙子さんの養女と思われている人も多い。実は違う。中国名の任彦麗(にん・えんり)で来日した私は、妙子さんが監督を務めていた日立高崎(現ビックカメラ高崎)に加わり、95年に32歳で日本国籍を取得した。宇津木家に頼み込み「(宇津木)監督の姓を、もっと世界に広めたい」と、以後名乗らせていただいている。妙子さんは私にとって姉という感じだろうか。

 「麗華」は両親から授かった「麗」と、中華人民共和国の「華」を1字ずつ取った。「日本人になっても娘には変わりはないから」と言ってくれた父の愛情を一生涯忘れまいと誓った。私は「夢」という言葉が好きだ。見るのはたやすい。でも、かなえるのは難しいことを身をもって経験した。日本人となって迎えた96年アトランタ五輪。ソフトボールが新競技に採用されながら「日の丸」を背負えなかった。国籍変更に絡む五輪憲章の規定で祖国・中国の承認を得られず、直前で出場を断念せざるを得なかったからだ。それでも私にとってソフトボールは、父の言葉「夢中になれるもの」そのものだった。日本リーグでは三冠王の栄誉をいただき、五輪では日本代表の中軸として2000年シドニー、04年アテネの両大会を経験した。

 08年北京五輪では、大会を迎える前に12年ロンドンで五輪種目から外れることが決定していた。似たような状況で迎える20年の東京五輪。24年のパリに「ソフトボール」はなくても、夢を持って生きていれば、人と人が結び付き、縁やつながりは生まれる。この世は金メダルが全てではない。けれども、今の役割、勝負師の立場としてはどんなことをしても、金色の輝きを日本中の皆さんにお見せしたい。私には夢をかなえて“恩返し”をしたい人がいるから。それは、上野由岐子だ。 (ソフトボール女子日本代表監督)

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 宇津木 麗華(うつぎ・れいか)1963年6月1日生まれ。中国・北京市出身。元中国代表。88年来日、95年日本国籍取得。現役時代は内野手で日本代表の主砲、主将として活躍し、シドニー五輪銀メダル、アテネ五輪銅メダル。2003年に日立&ルネサス高崎(現ビックカメラ高崎)の選手兼任監督就任。04年に現役引退後は11年から15年まで代表監督を務め、12、14年の世界選手権優勝。16年11月、再び代表監督就任。群馬女子短大を聴講生として卒業。右投げ左打ち。

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