13日19回目の命日 炎の15番形見のスパイク、後輩は「履けませんでした」

西日本スポーツ 西口 憲一

藤井投手から譲られたスパイクを木村さんは自宅で大切に保管している 拡大

藤井投手から譲られたスパイクを木村さんは自宅で大切に保管している

元ホークス投手の木村茂さん 元ホークスの故藤井将雄投手 ダイエーからドラフト3位指名を受けた当時の木村さん=1997年11月21日、千葉県市川市の千葉商大

 ホークスにとって忘れられない「10月13日」が今年も巡ってきた。19年前の2000年、列島が「ON対決」で沸いた日本シリーズの開幕直前。福岡ダイエー(現福岡ソフトバンク)の中継ぎエース、藤井将雄さん(享年31)が肺がんのため逝った。人情味あふれる熱血漢で、ダイエー初優勝時のチームメートだった現ソフトバンクの工藤公康監督ら先輩から目をかけられ、後輩から慕われた。1998年から7年間、ダイエーの投手としてプレーした木村茂さん(43)もその一人。形見のスパイクとともに「炎の15番」は心の中で生き続けているという。

 軸足の右足のつま先を保護する「ピー革」はマウンドの土で汚れ、破れかかっている。使い古されたスパイクを、木村さんは福岡市の自宅リビングでケースに入れて大切に保管している。2000年の夏前のこと。再入院が決まり、雁の巣球場のロッカーで荷物整理をしていた藤井さんから「おい、履いてみろよ」と渡された。

 木村さんは当時大卒3年目の24歳。最速153キロの本格派右腕として王貞治監督や尾花高夫投手コーチから「秘密兵器になってほしい」と毎年のように期待されながら、伸び悩んでいた。力みまくる姿が藤井さんに似ていると、付いた呼び名は「力丸2世」-。そんな木村さんを藤井さんも人ごとに思えなかったのか、キャンプ中は部屋に呼んだり、遠征先で食事に誘ったりしながら気にかけた。

■闘病中のマウンド「気力で投げていた」

 1999年に最多ホールドに輝くなどダイエー初優勝に貢献した藤井さんは同年の日本シリーズ後、体調を崩して入院。以後入退院を繰り返しながら、翌2000年はファームの練習に参加して2軍戦6試合に登板した。球速は130キロちょっと。それでも肩で息をしながら、打者に立ち向かう姿を木村さんは目に焼き付けた。「気力だけで投げている感じでした」。スパイクを譲られたのも、その時期だった。「サイズは僕と同じ27センチ。でも、履かなかった。履けませんでした」。1軍での実績がない木村さんは、メーカーからスパイクを提供されるような立場ではなかった。「用具一つ購入するのは大変。そんな私を心配してくれたのか、激励の意味だったのか…」。死期を悟った藤井さんの形見。「負けるな、と言われている気がした」

■母校で投手を指導「藤井さんへ恩返し」

 ユニホームを脱いだ後は福岡市の一般企業に就職。家族を残して昨秋に単身上京し、現在は東京でイベントの企画や運営などを手掛ける会社で働きながら、母校の千葉商大でコーチを務める。今秋から千葉県大学野球連盟の1部に昇格した同大学では投手を指導。「気持ちだけは負けないように、人として恥ずかしくない生き方をしたい。7年間もユニホームを着させていただいたホークス、そして藤井さんへの恩返しだと思っています」。東京・有楽町のビル群をバックに、木村さんは現役時代と変わらない柔らかな笑みを浮かべた。「私の中で15番は永遠のエース番号なんです」。思い出に浸るのではない。「10月13日」は初心に戻る日。前に進もうと、気力を奮い立たせる日でもある。 (西口憲一)

   ◇    ◇

永井、篠原ら同期入団

 木村さんが3位指名を受けた1997年秋のドラフト会議で、ダイエーは即戦力投手を次々と補強した。1位(逆指名)でJR東海の永井智浩、2位(同)で三菱重工長崎の篠原貴行、4位でNKKの星野順治を獲得。小久保裕紀、城島健司、井口忠仁、松中信彦、柴原洋ら、のちにホークス黄金期の主力となる野手は既に入団しており、リーグ4位に終わった同年のドラフトは投手力の強化がテーマだった。下位では高校生野手を指名し、5位で石川・星稜高の辻武史、6位で東京・東海大菅生高の笹川隆が入団した。

PR

PR

注目のテーマ