熱狂どこへ…ソフト切ない世界一 なでしこの陰で

西日本スポーツ

 東京五輪で日本選手団の先陣を切って登場するソフトボール女子日本代表の宇津木麗華監督は、北京五輪以来となる金メダル獲得の期待を担う中で令和を迎えた。

 生まれ故郷の中国から昭和に来日。選手や指導者として平成を駆けた。一度は五輪から除外された期間の苦しさを知るからこそ、選手には日本代表として五輪で戦う意味や価値を問い続ける。東京五輪を「競技人生の集大成」と言い切る宇津木監督が思いを語った。

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 幸せだった。誇らしくもあった。でも、少しだけ切なかった。2012年7月、カナダの空に日本の国歌が響いた。敗者復活戦から勝ち上がった世界選手権の決勝。エースの上野由岐子(当時ルネサスエレクトロニクス高崎、現ビックカメラ高崎)が完投し、延長十回の末に2-1で米国を倒した。1970年大会以来、42年ぶりの優勝を決めた瞬間、私は立ち上がることができなかった。その試合、終盤から地面に座ったまま指揮を執っていた。米国を倒せる、と思った途端、膝が急に震え始めた。足腰が弱ったと感じたのは間違いで、重圧の仕業だった。

 座り込んだ姿、きっと動画にも残っていないだろう。開幕目前のロンドン五輪一色に染まった世の中で、実施競技から外れたソフトボールは見向きもされなかった。通信社の記者が1人いたかどうかで、あとは日本ソフトボール協会の機関誌のカメラマンぐらい。あの北京五輪の熱狂は何だったのか、まだ4年しかたっていないのに…。前年はサッカー女子日本代表(なでしこジャパン)がワールドカップを初めて制してフィーバーとなった。比較するものではないと分かっていながら「私たちもよ!」と声を大にしたかった。

 選手の手で胴上げされた。感情的にはならない、と決めていたのに涙で視界がゆがんだ。試合後に「私たち日本人は…」と口にしていたことを後で知った。大げさではない。「勝たないと、ソフトボールが世間から忘れ去られてしまう」とさえ思い込んでいた。

 勝ち越し点は大久保美紗のスクイズで奪った。ルネサスエレクトロニクス高崎でも監督-選手の関係で、三振をしない、審判の特徴をつかむのがうまいプレーヤーだった。リーグ戦の優勝が懸かったある試合、あとアウト1個で負ける状況で、勝利を確信した相手チームの関係者が握手をしていた。それをじっと見ていた彼女は「私は絶対にアウトになりませんから」と言い残し、ファウルで10球以上粘って出塁。逆転サヨナラ勝ちへの起点となった。機械に「血」や「気」は流れていない。人間が持ち、備える力。勝負を決めるのはそういう選手なのだ。

 16年秋、2度目の代表監督就任のお話をいただいた時、一度はお断りをした。自国開催の五輪。中国出身で日本国籍を取得した私ではない方が、国民の共感を得やすいという意味でもふさわしいのではと考えた。名誉なんて要らない。でも、上野が「任さん(私の中国名)に恩返しをしたい」と語っていたのを人づてに聞き、頑張ってきた上野を一人にしないと決心した。

 それ以来「2020年」に向かって時を刻んできた。一方で、ふとした瞬間、円を描くように過去に立ち返ることもある。いろんな感情がない交ぜになって流れたカナダでの感涙もその一つだろう。間もなく年が改まる。ソフトボールに関わる全ての人にとって幸せで誇らしい夏にするために私は最後の力を振り絞る。
 (ソフトボール女子日本代表監督)

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 宇津木 麗華(うつぎ・れいか)1963年6月1日生まれ。中国・北京市出身。元中国代表。88年来日、95年日本国籍取得。現役時代は内野手で日本代表の主砲、主将として活躍し、シドニー五輪銀メダル、アテネ五輪銅メダル。2003年に日立&ルネサス高崎(現ビックカメラ高崎)の選手兼任監督就任。04年に現役引退後は11年から15年まで代表監督を務め、12、14年の世界選手権優勝。16年11月、再び代表監督就任。群馬女子短大を聴講生として卒業。右投げ左打ち。

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