ソフト宇津木監督の過去「打てないなら中国に帰れ」応援団からヤジ

西日本スポーツ

 東京五輪で日本選手団の先陣を切って登場するソフトボール女子日本代表の宇津木麗華監督は、北京五輪以来となる金メダル獲得の期待を担う中で令和を迎えた。

 生まれ故郷の中国から昭和に来日。選手や指導者として平成を駆けた。一度は五輪から除外された期間の苦しさを知るからこそ、選手には日本代表として五輪で戦う意味や価値を問い続ける。東京五輪を「競技人生の集大成」と言い切る宇津木監督が思いを語った。

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 チームプレーとは、と尋ねられることがある。助けたり、助けられたりも間違いではない。何よりも欠かせないのは「共感」ではないか。自分と真摯(しんし)に向き合い、責任を果たそうと努める。妥協をしない姿勢や生きざまを見て人は初めて心を動かされ、仲間を支えようとする。「ソフトボールはチームだけれど個、人間力が問われる」。代表監督を長く務め、日本ソフトボール協会副会長などの要職に就く宇津木妙子さんの教えを胸に刻み、座標軸にしている。

 「宇津木姓」の私は養女ではなく、親戚関係にもない。妙子さんのプレーに憧れ、中国名の任彦麗(にん・えんり)で来日した私は妙子さんが指揮を執っていた日立高崎(現ビックカメラ高崎)に加入。人としての成長も引き出していただいた。指導は厳しかった。160センチに満たない小柄な体からは想像できない体力の持ち主。鉄人だった。当時の練習場にあった4本の大木のうち、1本が風で倒された。強烈な「上州の空っ風」でも絶対に吹っ飛ばされない。冗談ではなく、真剣に思った。1分間に40本ぐらい打っていた、と形容される速射砲のようなノックは普通ではない速さだった。打球に飛び込んで起き上がろうとすると、もう次の打球が飛んできた。

 来日6年目の1993年、私は不振時に応援団から「打てないのなら中国に帰れ!」とやじられた。寮の近くで独りで悲しんでいたのを、妙子さんは心配して探しに来てくれた。会社に出向いて「温かく見守ってあげて」と伝えるなどかばってくれた。真心に応えようと、その年のオフの納会で私は「来年三冠王を取れなかったら中国に帰る」と誓った。当然意地もあった。有言実行で手にした94年の三冠王は忘れ難い。

 日立高崎を強豪に育て上げ、日本代表の監督にも就任した妙子さんはグラウンド以外の苦労と隣り合わせだった。ねたみなどから、身に覚えのない怪文書が出回ったこともある。ソフトボール界が一枚岩ではなかった空気を、私も感じ取っていた。それでも妙子さんは反論することなく我慢していた。どんなに風当たりが強くても倒れなかった。

 どんな結果に対しても逃げない、揺るぎない覚悟こそ、人間力だと思っている。95年に日本の国籍取得を果たした際、私は「宇津木の姓を有名にします」と宇津木家に頼み込み、以後名乗らせていただいている。国籍を変更した本当の理由は、「宇津木」という素晴らしい指導者が日本にいることを世界中にもっと広めたかったからだ。選手として力になりたかった。

 昨年、群馬県高崎市に国内では珍しいソフトボールの専用球場が完成した。愛称の「宇津木スタジアム」は同市に暮らす妙子さんと私にちなんだもので、開業した6月1日は妙子さんと一緒に始球式も務めさせていただいた。私の誕生日と重なったのは偶然ながら、最高のプレゼントだと、天のおぼしめしに感謝した。
 (ソフトボール女子日本代表監督)

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 宇津木 麗華(うつぎ・れいか)1963年6月1日生まれ。中国・北京市出身。元中国代表。88年来日、95年日本国籍取得。現役時代は内野手で日本代表の主砲、主将として活躍し、シドニー五輪銀メダル、アテネ五輪銅メダル。2003年に日立&ルネサス高崎(現ビックカメラ高崎)の選手兼任監督就任。04年に現役引退後は11年から15年まで代表監督を務め、12、14年の世界選手権優勝。16年11月、再び代表監督就任。群馬女子短大を聴講生として卒業。右投げ左打ち。

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