五輪が消えたとき マラソン宗兄弟は成田空港の異様な光景で知った

西日本スポーツ 向吉 三郎

 東西冷戦下で起きた1979年のソ連(当時)のアフガニスタン侵攻に抗議し、米国や日本などの西側諸国は翌80年のモスクワ五輪をボイコットした。40年の時を経て、今度は東京五輪が世界的な議論の対象となっている。新型コロナウイルスが世界的な感染拡大を続ける中、予定通り開催か、延期か、それとも中止か-。80年に夢の舞台に立つことができなかった「幻の代表」たちが当時を振り返った。(向吉三郎)

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 1980年5月25日の成田空港。日本に降り立った宗兄弟を無数のフラッシュが包んだ。「ボイコットか…」。双子の弟の猛氏とともにモスクワ五輪のマラソン代表に決まっていた茂氏は、一瞬で状況を理解した。

 ライバルの瀬古利彦氏を含めた3人の代表は「史上最強トリオ」の呼び声高かった。前年の福岡国際マラソンは瀬古氏、茂氏、猛氏の順で上位を独占。メダルの期待を背負って米国オレゴンで走り込み、帰国のため機上の人となった24日に日本の不参加が決まった。

 合宿打ち上げの際、所属する旭化成の広島日出国監督に「ハワイに寄って帰ろう」と提案されたが、「休んでいる暇はありません」と断った。「広島さんは状況の厳しさを知っていたけど、合宿では僕たちに言い出せなかった」と振り返る。

 海外で簡単に情報を得られなかった時代。2人の心を癒やすためのバカンスだったと後に分かった。不参加の可能性は代表に決まった直後から取り沙汰されていた。そんな中でも「五輪はあるんだ」と自分に言い聞かせ、走り込んだという。

 40年後の現在、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、東京五輪のことがさまざまに論じられている。「今は施設が閉鎖されて練習もできない。大変でしょう」。トレーニングもままならず、不安な気持ちで開催を待つ選手たちを案じる。

 茂氏は初出場した76年モントリオール五輪で20位。「運良く出られたけど、出るだけでは意味がない。次は世界と戦える選手として、兄弟で(出たい)と思っていた」という言葉通り、78年2月には世界歴代2位(当時)の2時間9分5秒6のタイムで走った。

 もし、モスクワ五輪に参加していたら-。その問いに「分からない。だって出ていないから」とため息交じりに答えた。だが、「負けたことのない選手が金銀銅だった」。当時27歳。ピークで迎えた五輪で走れなかった悔しさがにじんだ。

 政治に翻弄(ほんろう)されたモスクワ五輪の4年後のロサンゼルス五輪は17位。「(感染拡大は)どうしようもないこと。(東京五輪を)予定通りにやるのか、中止か、延期かも分からない。選考会の予選もできない状態は、僕たちの時代よりもつらい」。かつての名ランナーは、世界のアスリートを思いやった。

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