競技始めて4年で五輪切符 新星伸ばした両親のしつけ【競歩・藤井菜々子の素顔】

西日本スポーツ

 3月の全日本競歩能美大会(石川)女子20キロで藤井菜々子(エディオン)=福岡県那珂川市出身=が優勝し、東京五輪代表を決めた。左脚の故障をきっかけとして競歩を始め、約4年という短期間でつかんだ夢舞台への出場権。度重なるけがを乗り越えてきた根底には、父・孝樹(54)と母・真由美(50)の根気強いしつけがあった。  (末継智章)

  (文中敬称略)

■素質に気づいたのは小学2年生のとき

 2020年3月15日。孝樹と真由美は全日本競歩能美大会が開かれた石川県能美市の沿道にいた。1月に右脚を痛めた菜々子の復帰戦で、優勝すれば東京五輪代表に決まる大一番。真由美はマスク越しに声援を送った。

 真由美「いつものように飛び出す展開ではなかったので、不安だった。ゴールした瞬間は感極まった」

 真由美も中学から高校1年生まで短距離や走り幅跳びを専門にした元陸上部員。菜々子の素質に気づいたのは、山口県光市に住んでいた07年だ。

 真由美「小学2年生のとき。娘の親友のお父さんが陸上クラブに入っていて、近くのダムまで山の中を5キロほど走ろう、と誘われた。他の女の子たちは途中で断念したけど、菜々子は大人に食らいついた」

 翌08年に同市の光市スポーツ少年団に加入。09年末に孝樹の転勤で福岡県那珂川市に引っ越すと、翌年に発足した「那珂川ジュニアランナーズ」の1期生になった。

 孝樹「春日公園(福岡県春日市)で2、3時間の練習。後ろから追い掛けたが5年生の後半ぐらいから追いつけなくなった」

 陸上に関する助言は控えたが、基本的なしつけは妥協しなかった。

 真由美「娘が手袋をはめてとせがんでも、主人は自分でさせて根気強く見守っていた。私もご飯を食べる際、猫背を正すよういつも言っていた。私も主人も根負けしない性格」

 一方で脚の故障が多く、両親の心配は尽きなかった。

 真由美「小学6年生になる直前。左足甲の外側の骨にとげのようなものができていて神経に当たっていて手術した。その後も冬によく脚を痛めた」

■“悲劇”が飛躍の転機に

 菜々子は強豪の北九州市立高に進学し、学校の寮に入った。1年冬の16年2月。真由美に電話がかかってきた。左すねの疲労骨折を告げる菜々子からの連絡だ。くしくも真由美が高校1年で陸上をやめることになった理由も、すねの疲労骨折だった。

 真由美「2カ月ぐらい走れないと聞き、春からの全国総体予選に響くなあ、と。私の方がへこんだ」

 だが“悲劇”が飛躍の転機になった。リハビリの一環で競歩を始めると、練習で同級生を圧倒。全国高校総体の予選出場メンバーに女子5000メートル競歩で選ばれた。荻原知紀監督から言い渡された夜、菜々子は真由美に電話をかけた。

 真由美「『競歩は走れない人がやるイメージで出たくない』と。でも1校につき1種目3人までしか出られず、他の種目に空いている枠はなかった。だから『チャレンジしたらいい。走るのにもつながっていくんじゃない』と後押しした」

 両親の予想以上に、菜々子は快進撃を見せる。競歩デビュー3戦目だった北九州高校陸上(6月)で24分10秒93の大会新記録を出して優勝。7月末の全国総体(岡山)ではさらに記録を50秒以上も縮めて制した。

 真由美「歩くたびにベストを出すので、もしかしてすごいことになるのではとは思っていた。それでも入賞圏内を狙えるかなというぐらいで、まさか優勝とは思わなくて夫と驚いた」

■五輪延期をプラスに

 翌年の全国総体も連覇し、国体ではU20(20歳未満)の記録も樹立して優勝。結果を出すにつれて菜々子も競歩で世界を目指すようになり、卒業後にエディオンに入社すると10キロや20キロでも徐々に結果を出した。社会人2年目の昨秋は世界選手権(ドーハ)に出場。真由美が現地で応援する中、7位入賞を果たした。約4年で世界屈指の選手となった。

 孝樹「確固たる自分ができていて、大人になったというか、僕がコントロールできる範囲の外に行っちゃったなあ」

 五輪が1年程度延期になったが、日本陸連は既に内定した選手の五輪出場を保証する方針だ。

 真由美「菜々子はけが明けで4カ月後に本番に臨むのは難しい気持ちがあったので、延期をプラスに捉えていた。順調なら歩けば歩くほど記録を更新する子。世界選手権よりも良い結果を出してくれたらという期待がある。もうけがはしないでほしい」

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