ダイエー逆指名ルーキー山田秋親、キャンプから狂った歯車 経験生かした「ユニホーム着っぱなし」人生

西日本スポーツ 喜瀬 雅則

 立命大時代に日本代表として2000年のシドニー五輪にも出場した豪腕・山田秋親氏(41)は、福岡ダイエー(現福岡ソフトバンク)を逆指名してドラフト2位で01年に入団した。「未来のエース」として注目を集めた右腕だったが、存分に力を発揮することができなかったホークスでの8年間は「歯がゆいことばかり。悔しかったです」-。後進の指導に当たる今、苦闘の日々を改めて振り返ってもらった。 (喜瀬雅則)

 期待の視線が重圧に変わる。それは、大物ルーキーの宿命でもある。「初めにちょっと狂ってしまうと、相当な労力がいる。ちょっと痛いときにどうするか、僕にはその“引き出し”がなかったんですね」

 シドニー五輪の日本代表にも選出されたアマ屈指の豪腕は、複数球団の争奪戦の末、ドラフト2位(逆指名)で2001年にダイエー入団。同1位が同じく剛速球で鳴らした九共大・山村路直で、2人の頭文字から「YYコンビ」と騒がれたルーキーイヤーの高知キャンプは報道陣が密着マーク。行く先々でファンが鈴なりになった。

 「たくさんの人に見られているというのは、ありがたいこと。でも、しんどかったですね」。そうした緊張や疲れからなのか、腰や右肘、左膝に、ちょっとした痛みが出た。ただ、プレーができないというほどではなかった。

 近年は神経質に映るほどルーキーに別メニュー調整を課すが、20年ほど前の野球界は、まだまだ精神至上主義の名残があり「痛いんだったら、つばでもつけとけ、って。当時は『違和感って何?』って感じでしたから」。今では笑い話だが、当時のルーキーは、それこそ簡単に「痛い」とは言えない状況でもあった。

 01年3月28日の近鉄戦(大阪ドーム=当時)で初登板初先発初勝利の鮮烈デビューも、その年は2勝止まり。04年にセットアッパーとして35試合登板、6勝を挙げ「リリーフがしっくりきたところがあった」と新たな可能性を見いだすも、蓄積された“ひずみ”が出たかのように、06年に右肘、07年は左膝を手術。「軌道に乗り切れずにつまずいた」と08年に戦力外通告を受けた。

 それでも、戦力外通告後に右肩関節唇の手術を受けると、09年に独立リーグの四国・九州アイランドリーグ(現四国アイランドリーグplus)の福岡(現在は活動休止中)でプレーし、10年に千葉ロッテへ入団。元NPB選手が国内の独立リーグを経て、再びNPBへ復帰したのは、山田氏が初のケースだった。

 12年に再び戦力外となった後も、13年からクラブチームのミキハウスREDSでプレー。その年には日本生命の補強選手として都市対抗にも出場するなど「幅広くやらせてもらえた」という豊富な経験は、4年目を迎えたびわこ成蹊スポーツ大(大津市)でのコーチ経験に生かされているという。

 「プロでの苦労が生きています。現役引退してからもあっちこっちに行って、こうやってコーチになって、ユニホームを着っぱなしなんです。これからは指導者として頑張っていきたいです」

 重圧、ケガ、復活。そんな山あり谷ありの野球人生だからこそ、指導者としての“深み”も出てくるのだ。その山田氏の次なる夢は、手塩にかけた教え子をプロに送り出すことだ。

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