ホークスの「19」 ノムさんから甲斐までの長い歴史…道中に奇縁も

西日本スポーツ

 背番号には歴史がある。広いグラウンドに立つ選手にとって、背負う番号は大きなアイデンティティーだ。今回、紹介するのは「19」。南海時代の捕手で兼任監督も務めた野村克也が1977年まで背負い、43年の時を経て今年からはその大先輩を敬う同じ捕手の甲斐拓也に渡った。2人の間に背負ってきたのはいずれも投手の6人。脈々と引き継がれるユニホームナンバーの系譜を今、ひもといてみる。

 昨年11月28日。ゴールデングラブ賞表彰式が行われた日、3年連続3度目の戴冠となった甲斐の背番号が62から19へ変更されることが球団から発表された。捕手が背負うのは、南海時代の1956~77年(70年以降は兼任監督)の野村克也以来。捕手で史上唯一の三冠王、史上最多19度のベストナインなど、球史にひときわ輝く功績を残した先人の後を継ぐことになった甲斐は「最近は投手の背番号みたいになっていた。そこを僕は変えたい」と偉大な番号を背負う決意を口にした。

 野村から甲斐に渡るまでの間に19を背負ったのは6人。その全てが投手で入団した選手だった。野村のロッテ移籍に伴い78年からあいていた番号を、球団は79年秋のドラフト3位で指名した山内孝徳に提示。入団を保留されたが1年越しで合意にこぎつけ、右腕は81年から92年までつけた。

 93年からはドラフト1位で投手として入団した大越基が継ぐ。150キロ超を誇った剛腕は2年目に13試合に登板も、96年のシーズン中に初めて野手で出場。登録が野手となった97年に背番号は51へ変わった。

 その97年は初めて外国人のニコルズがつけたが3試合の登板に終わり右腕は1年限りで退団。98年からは現編成育成本部長兼スカウト・育成部長の永井智浩が背負った。社会人ナンバーワンの評価を得てJR東海から逆指名のドラフト1位で入団。救援で登板7試合の1年目は白星を挙げられなかったが、福岡移転後初優勝の99年に10勝を挙げて先発ローテーションに定着し、ソフトバンク元年の2005年までつけた。

 野村の系譜を継ぐのは甲斐だけではない。07年入団の森福允彦は、社会人のシダックス時代に監督だった野村から薫陶を受けた。球団のドラフト指名あいさつ時に「野村監督が現役時代につけていた背番号だし、もちろん19がいい」と異例の“逆指名”で意中の番号を射止めた経緯がある。

 18年のシーズン途中に加入したミランダは19年限りで退団。今年は新型コロナウイルスの感染が拡大する中、世界最速で開幕した台湾プロ野球リーグの中信兄弟で開幕投手を務めた。そのキューバ人左腕と19年までバッテリーを組んだのが甲斐。さまざまな縁に彩られた19を再び捕手の番号に染め上げていく。 (敬称略)

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