異色の経歴、元新聞記者のプロ野球2軍監督が今語る 「甲子園のスター」信じ続けたコンバート秘話

西日本スポーツ 西口 憲一

 選手としてプロ野球未経験ながら、ホークスの2軍監督を務めたのが有本義明さん(88)だ。兵庫・芦屋高のエースとして1949年春の選抜大会で準優勝。新聞記者では主にプロ野球担当として活躍後、93年から3シーズン、福岡ダイエー(現福岡ソフトバンク)2軍監督として育成に尽力した。「俺が上(1軍)をやるから、下(2軍)を手伝ってくれ」-。西武やダイエーなどで監督を務め、フロントマンとして才腕を振るった根本陸夫さん(99年死去、享年72)の一言で踏み込んだプロの世界。異色の経歴は常勝軍団の礎の一つとして刻まれている。

■93年から3シーズン

 時代が変わっても特別な場所に変わりはない。ダイエーの2軍監督に就任して1年目の1993年、甲子園でのウエスタン・阪神戦。有本さんは2試合の一つを甲子園出場組、もう一つを不出場組で臨んだ。

 「プロにとっても『甲子園』は自尊心というか、ひそかな誇り。かたや『(地方大会の)惜しいところで負けて出られなかった』と悔しがる選手もいた。野手を何となく分けてみたらチームを二つ組めた」

 甲子園出場組では「桜島打線」と呼ばれた鹿児島実高で春夏通算4本塁打を放った内之倉隆志(入団3年目)を3番、福岡第一高3年夏に準優勝した「九州のバース」こと山之内健一(同5年目)を4番で起用。2人とも「甲子園のスター」として入団しながら、1軍とはほど遠い2軍暮らしを続けていた。その試合、山之内は高校時代をほうふつとさせるような右翼席最上段への推定飛距離150メートルの特大弾を放ち、有本さんをはじめコーチや選手を驚かせた。

 「もう一度、1軍に『挑戦』してほしかった。2軍で『勝った、負けた』に挑戦したって意味がない。1軍に行かないとプロに入った価値がないから」

 プロが通過点ではなく到達点になってしまう選手、プロでの立ち位置を勝手に決めたり、諦めたりするような選手もいる。有本さんは甲子園での試合前、ミーティングでこう伝えた。

 「君たちは何で野球を始めたんだ? プロになるため? せっかくその世界に入ったんだから、2軍にいたって仕方がない。2軍ではお金にはならない。甲子園でプレーすることで新鮮な気持ちを取り戻して、1軍に挑戦するための一つの試合と捉えてほしい」

 有本さんは記者としてプロ、アマ問わず野球と向き合ってきた。一方で社会人チームの三菱重工長崎や本田技研、高校などを指導した経験もあった。取材を通して深い信頼関係にあった根本さんに「体は空いているか」と、ダイエーの2軍監督を打診されたのは92年。「座って(チームを)見ていてくれたら、それでいいから」。断れるはずもない。会話は30秒ほどで決着。当時西武のフロントだった根本さんは翌年から1軍監督としてダイエーを率いることが決まっていた。

■拒否されても引かず

 93年の春先。根本さんから「好きなようにやってくれ」と2軍を任された有本さんがまず着手したのは、内之倉の三塁手から捕手へのコンバート。打力は非凡でも、脚力的に野手として通用しにくい。強肩も生かすために捕手への転向を勧めたところ、内之倉は拒否した。それでも有本さんは引かなかった。

 「悪いけれど、君の脚力では選手(レギュラー)にはなれない。君は選手になりたいんだろ? いや、甲子園のスターなんだから選手になってくれないと。そのスターがプロで全然(駄目)では、君自身が一番寂しいはずだ」

 有本さんにとって内之倉は、特に思い入れのある選手だった。93年春の高知キャンプのことだ。ダイエー2軍を率いて初めて指揮を執った西武との練習試合に勝利した。プロ野球の監督としての初白星-。宿舎に戻るバスの車中でほろっときた。記念すべき試合で2本塁打をマークしたのが内之倉だった。そんな選手に断を下すのは容易ではなかった。有本さんの説得に内之倉は腹をくくり、その後用具メーカーにプロテクター、レガース、ミットを注文した。

 「たしか、翌(94)年秋のドラフト会議で城島(健司)を指名するわけですよ。『えらいのが来るなあ』と(笑)。内之倉を捕手にしたばかりなのに、城島がやって来たらどうにもならんな、と。果たしてどうにもならんかった(笑)」

 2002年限りでユニホームを脱いだ内之倉の1軍通算出場は118試合。でも、ミットは今もはめ続けている。ソフトバンクのブルペン捕手として。現在は1軍担当。ブルペンスタッフを束ねながら、強力投手陣を陰で支えている。

 「(野球雑誌の)週刊ベースボールに以前、内之倉が投手を気分よく投げさせるために『ミットの面を投手に向けて揺らさないように捕る』とか『良い音が鳴るように浅くて硬いミットを準備する』とかブルペン捕手としての心得についてコメントしていた。そこには『最初は嫌いなポジションだった。でも、やり始めたら、いかに大変でブルペンという職場がプロの世界に不可欠なのか分かった』とも書かれてあった。今、彼はブルペン捕手のチーフ格と聞いた。彼に受けてもらってから皆エース、主力になっていった。試合前など仕上げは(ブルペンの)エース捕手に受けてもらうのが野球界の流儀だから。それは内之倉にとってひそかな誇りだと思う」

 夢を抱き、希望を持ってプロの門をくぐる選手も、多くは球団から戦力外を告げられ、志半ばで球界を去っていく。自ら「引退します」と口にできる選手は幸せかもしれない。

 「飲んだくれて遊んで…という選手は自分で誇りをなくしている。いっぱい、いるんですよ、球界には。入りたいといって入れる世界じゃないのに」

 6月で89歳になる。選抜高校野球が中止となり、開幕の延期が続いた今春。球音が響かない、切ない季節だったからこそ「甲子園」や「プロ野球」の言葉には格別の情があふれた。 (西口憲一)

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