「野球観が変わった」多村仁志トレード移籍秘話 ソフトバンク王監督からかけられた言葉

西日本スポーツ

 「世界一」と「日本一」を知る多村仁志さん(43)は22年間の現役生活のうち6年間を過ごした福岡ソフトバンクで2人の監督と出会った。2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本代表を率いて初代王者に導いた、王貞治球団会長(80)との「縁」で常勝ホークスの一員となり、秋山幸二氏(58)=本紙評論家=の下では同じ「志」を抱き、日本一の景色を味わった。球界最年長育成選手(当時)としてユニホームを脱ぐまで白球を追い続けたスラッガー。心身を貫く座標軸は2人の将によって骨太になった。

 京都市の京都御苑そばに足腰の神様で知られる「護王(ごおう)神社」がある。私事ながら、学生時代を京都で過ごした私も何度かお参りにいったことがある。多村さんの口から「護王神社」の名前を聞いたのはホークス在籍時のこと。正直驚いたのを覚えている。

 「トレードで福岡に来る前でしたかね。ちょうど京都にいて、たまたま神社に立ち寄ったんです。『王監督を護(まも)る』と読めるのが気に入りました」

 王監督(当時)が率いた06年のWBCで日本代表入りし、3本塁打を放つなど優勝に貢献。右の大砲として王監督から期待された。神奈川県出身の多村さんにとって横浜は地元球団。愛着は強く、04年には40本塁打をマークするなど看板選手として活躍した。一方で横浜は1998年以来優勝から遠ざかり、勝利に飢えていたのも事実だった。

 トレードが決まった直後。多村さんは電話で王監督から、こんなメッセージを送られた。「この縁を大事にしよう。福岡には君が全力で戦える環境が整っている。迷わず来てほしい」―。家族を横浜に残し、慣れない福岡での単身赴任を気遣い、食事に誘われることもあった。会食の後、王監督が苦しそうにしていた様子を球団関係者から聞き、胸を締め付けられた。06年に胃がんの手術を受けた王監督は量を食べられないにもかかわらず、多村さんの前ではそんなそぶりを一切見せなかったという。

 「僕はホークス(の6年)で野球観が変わった。福岡に行っていなかったら、もっと早く現役を終えていたかも」。常に上位争いに身を置く緊張感だけではない。「小久保(裕紀)さんや松中(信彦)さんは体がボロボロの状態でもグラウンドに立ち続けた。自分の体調うんぬんより、やれる中で自分を信じて、ベストを尽くす。それがプロフェッショナルなんだと教わった」。移籍1年目の07年は左太もも裏を4度肉離れしても、シーズンを完走した。完治を優先させようとする王監督の勧めにも首を横に振った。手術明けの監督が戦いの最前線で指揮を執っている。「護る」と誓った己が離脱するわけにはいかなかったに違いない。

 王監督が勇退し、秋山監督が就任した09年。多村さんは王監督の座右の銘「氣力」から「氣」の1文字を取って、帽子のひさしに書き込んだ。シーズン途中には、本名の「多村仁」から「多村仁志」に登録名を変更した。「決めたものを目指すとか、信念、相手への思いやり…いろんな意味が『志』には含まれている。もう一度生まれ変わるんだ、という気持ちでした」。多村さんが「志」に込めた不退転の覚悟。「人それぞれ心に思い定めた目標や目的があるはず。プロというのは生きる道というより、生き残る道。だから、技術はもちろん、強い志も必要」と就任1年目の秋山監督は西スポ紙面で決意を「志」の漢字1文字で表した。「新聞の題字に書かれた『志』を目にして秋山監督にもご縁を感じました」と、多村さんは振り返った。

 現役時代は195本のアーチを描いた。安打と本塁打の関係について二つの考え方がある。「安打の延長が本塁打」と「本塁打の打ち損じが安打」。多村さんの考えはこうだ。「コメント的には謙遜して『ヒットの延長が…』と言っていましたね。でも、本音を言うとホームランを狙うスイングをしないと、なかなかスタンドには入らないですよ。僕の中で一番良いスイングはホームランの打ち方だと思ってました」。そんな多村さんの特長や心理を、自身も通算437本塁打のアーチストだった秋山監督は理解していた。勝利を第一に考え、状況に応じてチーム打撃を心掛けていた多村さんに対し、打撃が無意識に小さくなっていると感じていたのか、秋山監督は「サインが出ていないときは、全部ホームランを狙えよ」と背中を押したそうだ。

 落合博満監督率いる中日を4勝3敗で破った11年の日本シリーズでは2連敗スタート後の第3戦で殊勲者になった。「狙ってこいよ」との秋山監督の後押しに応えた起死回生の2ラン。その年シーズン100試合の出場にとどまっていた多村さんは、秋山監督からポストシーズンに状態を合わせるように声を掛けられていた。「自分を必要としてくれている」と意気に感じた時点で、多村さんの頂上決戦での活躍は約束されていたのかもしれない。

 「(トレード前に)横浜でやっていたときは、自分で口にするのも何ですが、センスでやっていたようなところがあったので…。ホークスでいろんな方々との『縁』がなければ、ここまでは絶対にやれなかった」

 多村さんの言葉を借りるなら「センス」だけで球界の荒波を乗り越えることはできなかったはずだ。現役最終年の16年は中日で背番号「215」の育成選手でプレー。39歳でバットを置いた。「王会長にも現役引退の報告をさせていただきました。いい言葉をいただきました。『僕の場合は、まだプレーできる状態だったんだけど、君はボロボロになるまでよく頑張ったね。幸せだね』と。完全燃焼できたというか、心置きなくユニホームを脱ぐことができました」。縁に導かれ、志高く生きた6年間が多村さんの野球人としての生きざまを決めたのだろう。
 (西口憲一)

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