森保監督支える戦友・横内コーチを直撃 五輪メダルへ「大げんかもありますよ」 

西日本スポーツ 末継 智章

 サッカーの日本代表と東京五輪男子日本代表を率いる森保一監督(51)=長崎市出身=をサポートする横内昭展コーチ(52)=北九州市出身=が本紙の単独取材に応じ、五輪への意気込みや1歳後輩の指揮官を支える“参謀”としての心構えを語った。森保監督がJ1広島を率いた2012、13年にヘッドコーチとしてリーグ連覇を達成。時にはけんか腰の熱い議論を交わしながらも「後輩ではなく戦友」と尊敬する。目標のメダル獲得に向けて影に徹する覚悟を口にした。 (聞き手・構成=末継智章)

■家族より長い付き合い

 -森保監督とは日本サッカーリーグ(JSL)のマツダ(現J1広島)で一緒にプレーしてから関係が続く。

 森保さんが入社した時から同じ寮で年が近いこともあり、よく話していた。当初はたわいのない話ばかりで、一緒に試合に出るようになってからサッカーの話をするようになった。

 -年齢が近い高卒組。ライバル意識は。

 ポジションもプレースタイルも違うので、ライバルとは見ていなかった。自分たちがレギュラーになって強くしたいよね、と。今も後輩だという感覚はなく、戦友だと思っている。

 -引退後も広島に残ってコーチに。ペトロビッチ監督(現J1札幌監督)や12年に就任した森保監督も支えた。

 チームを良くするために、いかに監督をサポートするかがコーチ(の仕事)。監督にはそれぞれカラーがあり、求められるものは違う。森保さんからは「僕の意見と違ったとしても言ってくれ」と言われている。

 -意見の相違や衝突はないのか。

 家族よりも付き合いが長く、お互い性格を分かっているのでやりやすい。現役時代はなかったけど、今では大げんかもありますよ。中身は言えませんけど(笑)。コーチとして内々に意見を出すのはいい。でも、監督がこうやりたいと決まった瞬間、その方向に向かうようにしている。それでいかにチームを良くするかも仕事。

 -間近で見た森保監督のすごさは。

 見えない所で、すごくいろいろなことをやっている。それを表に出さない。僕も知らないことがあると思う。例えば試合中にメモを書いてあるでしょ。僕も見たことないです(笑)。

 -17年秋に森保監督が五輪代表の監督に就くと、再びコンビを組む。

 代表は活動時間があまりない。ある程度分かり合えているから推薦していただいたと思う。広島と同じ感じでいきましょう、というスタンスでいる。

 -森保監督がフル代表を率いて南米選手権に参戦した昨年6月、横内コーチはトゥーロン国際大会で監督代行を務めた。

 監督からは「好きなようにやってください」と言われた。基本ずっと一緒に行動しているのでサッカー観が変わるわけではないし、森保監督がしないことをやるわけでもない。大会中は結果報告だけして、詳しい話は大会後にしていた。

 -トゥーロンは決勝でブラジルにPK負けして準優勝と健闘した。

 世界との差がすごく縮まったと思う半面、まだある差を縮めるのが大変だと感じた。日本の選手はすごく技術が上がってきたけど、本当に重圧を感じる中で正確にプレーできるか。精度の高さや判断力を細かい部分まで埋める作業になる。あと1年でメッシになれ、と言われても無理。チームを勝たせるためにどうすればいいか、しっかり考えないといけない。

■八幡製鉄勢を超えたい

 -小学2年からサッカーを始めた。

 出身の若松(北九州市)はサッカーが盛んな地域で、少年団の先生も熱心だった。中学では九州大会3位に入って全国大会に出た。

 -東海大五高(現東海大福岡高)に進学。

 当時は全国大会の常連で、平(清孝)監督(現総監督)に推薦していただいた。自分たちのボールを大事にする戦い方だったけど、全国レベルではなくて。全国大会では理想の戦いができずにジレンマを感じた。

 -マツダ入社時の指導者は後に日本代表を指揮するオフト氏だった。

 高校を出たばかりで実績もなく、下手くそですごく怒られた。名前を呼ばれたことすらなく「ハイスクールボーイ」とよく言われた。でも海外遠征には連れていっていただいて。アイコンタクトを取れとか、どっちの足でトラップをして体をどの方向に向けるとか、今、日本で少年たちに教えるような基礎を教わった。

 -引退後は広島のスクールコーチから再出発。

 辞めた後もサッカーに携わる仕事をしたくて。クラブには、カテゴリーはどこでもいいので現場でやらせてほしいとお願いした。スカウトも合わせて1年間だけ務め、高校の先生方と話をできて勉強になった。

 -育成年代に関わった経験はどう生きている。

 こういう選手がこうなるのかな、というのが少し見えるようになった。うまくなりたい思いが強く、人の話を聞ける子は絶対うまくなる。プロになった選手はそういう子が多い。育成年代ではないけど、大分から(10年に)移籍した西川(周作、現浦和)はうまくなりたい気持ちを持ち、謙虚で練習も真面目だった。槙野(智章、現浦和)は人のいい所を盗み、良くしようとする作業ができる。

 -ペトロビッチ監督の影響を受けた指導者も多い。

 ミシャ(ペトロビッチ)さんは芯を持っていてぶれず、自分のスタイル、生き方を持っている。当時は日本サッカー協会もGKも含めた11人でビルドアップしようと発信していたが、リスクがあるので実践する人は少なくて。でもミシャさんはリスクを怖がって何もしないと何も生まれないと考え、実践した。自分もそこはぶれないように心掛けている。

 -東京五輪への思いは。

 どんな大会になり、日本代表がどう表現できるのかという楽しみと、少しだけ緊張感がある。自国開催の重圧はあるけど、僕が死ぬまでに再び日本で五輪が開かれることはないでしょう。そこに参加できる楽しみと緊張感がある。

 -1964年東京五輪では北九州市を拠点とする八幡製鉄(後の新日鉄)の所属選手が多数出場した。

 八幡製鉄とは高校の時に1回だけ練習試合をさせていただいたし、宮本輝紀さん(東京、68年メキシコ五輪代表)の名前はよく存じ上げている。北九州は高校を卒業するまで育てていただいた思い入れのある街。何かの縁を感じるし(64年の)八幡製鉄の皆さんと同じ(8強)か、それ以上の結果を残したい。

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